完全現地取材!
衝撃のワールドカップ ’74大特集
幕開いた世界の大衆のお祭りワールドカップ!!
1次リーグ総まくり WM
’74の熱狂を現地に追う!!
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(サッカーマガジン1974年8月号)
3 東西の対決 ―― シェーン監督の悩み
西ドイツの第3戦は、6月22日。有名な港湾都市ハンブルクが舞台である。そしてこの試合こそ、困難な課題のうちの二つが、二重写しにされて、シェーン監督に迫ってきた1次リーグの一つの焦点だった。
この日は、他の都市での3試合が午後4時から先に行なわれ、西ドイツと東ドイツの試合はそのあと午後7時半キックオフだった。西ドイツはすでに2勝をあげており、東ドイツも1勝1引き分け。この日、タ方ベルリンでの試合で同じグループのオーストラリア−チリが引き分けたため、キックオフの時点で、すでに東西両ドイツとも、2次リーグ進出が決定してしまっていた。
したがって、競技的には、いわゆる “お花見試合” で、どちらが勝っても、それほどの重要性はなかった。しかし第二次世界大戦のあと鉄のカーテンにへだてられた東西ドイツの民衆が、国民的スポーツであるサッカーで、初めてのナショナル・チーム同士の対戦を迎えたのだから、彼らが多くの試合の中の単なる一つとして、淡々とした気持ちで、これを見たとは、とうていいえない。
西ドイツ側からは、シュミット新首相をはじめ主要閣僚がこぞってボンから乗り込んで観戦し、競技場で閣議が開けると新聞に書かれていた。この事実が、問わず語らずに、西ドイツの人びとの国民感情を示している。
シェーン監督にとっては、これは大きな悩みの種だっただろう。シェーン監督は前日の記者会見で「この試合は、けっして
“威信” のためのものではない」と強調していたが、シェーン監督はそう思わなくても、また西ドイツの人たちが口では「これはスポーツなんだから
――」といっても、国民的感情の無言の圧カを、シェーン監督がひしひしと感じなかったはずはない。
“お花見試合” になったために、かえってシェーン監督のジレンマは深くなっただろう。
ふつうなら双方にとって、これは “実験的試合” である。負けてもいいのだから、疲れのひどいベテラン選手を休ませ、2次リーグに備えて新しい戦術の実験をしてみることもできる。引き分けであれば、双方、傷つかずである。
しかし、東が威信をかけて勝とうとしてくるならば、「西」もこれを受けて立つほかはない。最終的にワールドカップで優勝するためには、ここでやり方を変えてみたい、あるいは手を抜いてみたい、とシェーン監督が考えたとしても、それはできない状況だった。
西ドイツの11人の中には、またもネッツァーの名はなかった。シェーン監督は、とにかく第1戦、第2戦と同じサッカーをして、少なくとも負けないための安全策をとろうとしたことは明らかだった。
西ドイツの中盤の組み立ては、相変わらずあざやかで終始、優勢だった。しかし東ドイツのマンツーマンの守りは固く、逆襲の速攻も鋭かった。終盤近くまで0−0。「このまま引き分けなら無事」と思ったのは、われわれ外国人記者の考えだっただろう。
スタンドを埋めた西ドイツの大衆は、じりじりしていた。「ヨーロッパ・チャンピオンのわがチームが “東”
に勝てないはずはない」という不満が、今にも爆発しそうに競技場の中に充満してきた。
後半20分すぎになって「ネッツァー!ネッツァー!」の呼び声がスタンドのあちこちから起きた。背番号「10」がベンチから出てウォーミングアップを始めると隣の席にいたドイツ人の記者が、われわれにも分かるように「カイザー・イズ・カミング」と英語でどなった。
後半23分、シェーン監督はまずシュバルツェンベックを、ヘッティゲスに代えた。続いて24分オベラーツが去り、ついに
“カイザー (帝王)” ネッツァーが登場した。
オベラーツが去り、ネッツァーが入って、西ドイツの試合のやり方が、がらりと変わったことは確かである。1人のプレーヤーによって、チームがこうも変わるものかと驚かされる。ネッツァーが入ってから、攻めの組み立てが直線的で力強くなった。しかし守りの点では前線でのチェックの余裕が少なくなり、逆襲を受けやすくなった。
オベラーツは、簡単なパスで複雑な攻撃を組み立てる。ネッツァーは、複雑なパスで直接的な攻めをねらう。ネッツァーが登場して最初に出したパスは、浮きダマに逆回転のスピンをかけ、一つの地点にぴたりとボールが止まることをねらったものだった。
ネッツァーの登場後、後半32分に東ドイツは見事な逆襲のゴールをあげて、この歴史的な試合をものにした。
そのために、多くの人たちが、この敗戦をネッツァーのせいにするに違いない。
だが、オベラーツにはオベラーツのサッカーがあり、ネッツァーにはネッツァーのサッカーがある。シェーン監督は、この2種類のサッカーを使い分けるつもりだったのではないだろうか。
この試合が単なる “お花見” だったら、シェーン監督は、2次リーグに備えて、はじめから “ネッツァーのサッカー”
を実験していたのではないかと思う。
しかし “東西の対決” を押し包んだ空気が、その実験を許さなかった。最後の20分に実験を試みて西ドイツは敗れた。試合の途中で急に戦術の流れを変えることは、西ドイツほどのプロフェッショナルにとっても、至難のわざだったからである。
4 東欧の台頭 ―― 速攻時代が来るのか?
西ドイツを破った東ドイツの1点は、見事な逆襲の速攻である。右サイド後方からハマンのあげた縦パスに、左サイド寄りからシュパルワッサーが走り込み、ワン・タッチで相手バック1人をかわし、さらに守備網の中に割って入ってすばやい足わざで1人を抜き、カバーしたフォクツのタックルをかわし、飛び出したゴールキーパーの脇の下をついてシュートを決めたものだった。
固い守備からの逆襲の速攻は、それまでにも、しばしば東ドイツがねらっていたものだけに、この1点をラッキーだったということはできない。これは最初から東ドイツが意図していたサッカーだった。
同じようなサッカーを、1次リーグでもっと完全にやり遂げてみせたのは、第4グループのポーランドである。
ポーランドは6月15日シュツッツガルトの第1戦でまずアルゼンチンを破った。最初の15分間にポーランドが早ばやと2点を取りアルゼンチンが追いかけたが、ポーランドは追いつかれそうになるとまた引き離し3−2で勝った。
この試合はハノーバーでウルグアイ−オランダ戦を見たあと、競技場近くのプレスセンターでテレビ観戦したのだが、テレビで見た限りでも、ポーランドの速攻は素晴らしかった。
中盤からのパスを、タッチラインぞいに走りながら片足をあげて空中で受け、そのままコントロールして、ほとんどスピードを落とさずに走り抜ける。あるいは相手のバックの間に割り込んでスルーパスを受け、ワンタッチでコントロールしてシュートする。そのスピードと、速さの頂点で発揮される足わざのみごとさが、テレビでも分かった。
ポーランドは、そのあと第2戦でハイチに7−0で大勝し、6月23日にシュツッツガルトでイタリアと対戦した。この試合には優勝候補イタリアの2次リーグ進出がかかっていたから、ハンブルクで東西ドイツの対決を見た翌日、急行列車を乗り継いで8時間がかりで駆けつけた。
イタリアにとっては絶対に負けられない試合であり、シュツッツガルトはドイツ南部で比較的イタリアに近いから、ネッカー・スタジアムは、イタリア人応援団の歓声で耳が破れんばかりである。圧倒的な
“イタリア・ムード” の、しかもポーランドはすでに2次リーグ進出を決定している立場だったが、ポーランドは鋭い速攻の手をゆるめなかった。
実際にポーランドのプレーぶりを見て特に気がついたのは、サイドチェンジの長いパスを有効に駆使し、しかも、それが速攻に結びついていることである。相手のボールを奪う。同じサイドでの短い縦パス、あるいはちょっとしたドリブル。相手が速攻に備えて、そのサイド目ざして戻りかけたときに逆サイドヘクロスに送る。オープン・スペースに走り込んだ味方が、走りながらコントロールしてすぐロングシュート。そんな場面が何度かあった。
逆サイドヘ大きなパスを正確にすばやく送るキック力と、攻守の切り換えを早くして疾走できる体力、機敏なボールコントロールと鍛えぬかれたシュート力
―― そういった総合的な体力と技術が一体となって、ポーランドの速攻戦術を作り上げている。
ポーランドは、この試合に2−1で勝ち、1次リーグでただ一つ3戦全勝の成績を残した。イングランドとの予選を勝ち抜いたのが単なる幸運でなかったことを、このワールドカップの立派な成績が証明している。
幅広く組織された底辺の中からスピードのある素材を選び抜き、鍛え抜いて作り出した速攻のサッカー。それがポーランドや東ドイツの今回のサッカーである。社会主義の東欧のサッカーが、オリンピックだけでなく、ワールドカップで、西側のプロフェッショナルを脅やかす時代になったのだろうか?
これは、次のワールドカップまでの4年間の大きなテーマになりそうだ。
5 2次リーグヘ ―― 地域的バランス
イタリアはポーランドに敗れて1次リーグで姿を消した。イタリア−ポーランド戦は、1次リーグの名勝負の一つであり、イタリアのマッツォーラを中心とする戦いぶりも、すばらしかった。しかしリーバとリベラを負傷で欠いた不運もあり、こういう大会の常として、力のあるチームがはやばやと消え去ることは、珍しいことではない。
6月13日に開幕して、23日までの11日間に、1次リーグの24試合が終わった。参加16チームを4グループに分けてのリーグ戦で、ベスト8の2次リーグに残ったのは、西ヨーロッパ3、東ヨーロッパ3、南米2となって、結果的にはほぼ地域的なバランスのとれた組み合わせになった。
しかし、1次リーグの内容を見ると、南米勢特に前回のチャンピオン、ブラジルの退潮が目立っている。
ブラジルは第1戦の対ユーゴ、第1戦の対スコットランドともに無得点の引き分けだった。スコットランドとユーゴも引き分けて、第2グループの4チームのうち、ザイールを除く3チームの対戦がみな引き分けになり、結局、ザイールに対して、いかに多くの得点をあげたかによって順位が決まった。
スコットランドは、第1戦でザイールと当たり、2点しかあげられなかったのが不運だった。初出場のザイールのようなチームは、全力をつくして強敵にぶつかってみるほかはないから、第1戦がすべである。ユーゴは、第1戦で力を出し尽くしたザイールから9点をもぎとって、楽にグループのトップに立った。
ブラジルは、最後にザイールに当たりながら、2次リーグ進出にぎりぎり必要な3点しかとれなかった。終了11分前に、やっと3点目をあげ、抱き合って喜んでいる写真が新聞にのっていたが、世界に名をとどろかせたブラジルのサッカーの戦いぶりとしては情ない。ペレを失った痛手は、それほどにも大きいのだろうか。
アルゼンチンは、イタリアと同勝ち点で、得失点差によって2次リーグヘ出た。この第4グループでも初出場のハイチからの得点の多少が大きく響いた。
第3グループでトップになったオランダは、クライフの華やかな活躍が注目の的だった。ペレの去ったあと、世界のサッカーの中心スターの座は、スペインのバルセロナでプレーしているこの27歳のタレントが占めることになるかも知れない。
オランダ・チームが記者たちに配ったプレスガイドには「テクニック、スピード、決定的シュートカおよび判断力の点で、無限の可能性を持つ」プレーヤーであると解説してあったが、1次リーグでのプレーぶりは、まったく、その通りだった。
このグループでは、ウルグアイの目をおおうばかりの不振で、スウェーデンがオランダに次いで2次リーグに出た。
しかし、1次リーグのスコアだけをみて、南米のサッカーの時代が去り、ヨーロッパの時代が来たと速断するのは間違っている。ブラジルは、いぜんとして個人のテクニックでは世界一であり、アルゼンチンの攻撃的サッカーには新しい魅力がある。次回のワールドカップ開催国はアルゼンチンだけに、今後のアルゼンチンのナショナル・チーム強化は、世界のサッカーの動向に大きな影響を与えるに違いない。
比較的弱いと見られていたチームの中で、日本と同じ予選地域から出たオーストラリアは、すばらしい進歩を見せていた。北中米代表のハイチとアフリカ代表のザイールは、コーナーキックなどに対する守備がまったくできていなかったために、大会の興味をそぐような負けっぷりも見せたが、1人1人の選手の才能には無限の可能性を秘めていた。
将来、世界のサッカーは、地域的バランスをとりつつ発展させなければならないし、その可能性は1次リーグの24試合からだけでも、十分に読みとれた。日本のサッカーだけが、取り残されることのないように
―― これはワールドカップの渦のさ中にいて、痛切に胸をさす思いである。
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