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完全現地取材! 衝撃のワールドカップ ’74大特集
幕開いた世界の大衆のお祭りワールドカップ!!
1次リーグ総まくり  WM ’74の熱狂を現地に追う!!
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(サッカーマガジン1974年8月号) 


1 開会式 ―― ワールドカップとは何か

 1974年6月13日 ―― フランクフルトのバルト・スタジアムは小雨模様だった。“バルト” ―― ドイツ語で “森” ―― というその名の通り、第10回ワールドカップ開幕の舞台は緑の中に包まれている。
 1966年の主会場だったロンドン・ウエンブレー競技場の圧倒されるような大衆的迫力や、1970年のひのき舞台だったメキシコ・アステカ・スタジアムの豪壮華麗なふんい気とは、また違って簡素のびやかな、いかにもドイツらしい雅趣のあるスタジアムである。
 午後1時過ぎ。木立ちの中の小径から青、白、赤の旗を打ち振るユーゴ人の群れ、かん高いラッパを吹き鳴らすブラジル応援団のグループが、つぎつぎに現れる。緑、黄、青、赤……服装と旗にあふれる明るいカラーの洪水、ラッパ、角笛、ラットルのけたたましいリズムの渦巻。「ああ、これがワールドカップだ」と4年前のメキシコを思い出させるサッカーの祭りの独特のムードが、趣きは違っていても、森の中のスタジアムをたちまちにして巻き込んだ。
 午後2時50分。ブラジル−ユーゴのオープニング・ゲームのキックオフまでには、まだ2時間以上あるが、スタンドは6万2千2百人の観衆でぎっしりだ。
 フィールドの上に、直径5bの白黒ボールの半球が16個、配置してある。この大会に出場する16カ国から招いた民族舞踊団が、それぞれ、お国ぶりの衣装で入場してきて、白黒ボールについている扉をあけて、中へ入り込んだ。
 午後3時。開会式のはじまり。16個のボールの一つが、花のつぼみが開くように割れて、中からユーゴの “アンサンブル・グラジミール” が国旗を持って登場する。割れ返る拍手と歓声。スタンドを波のようにゆり動かす3色の旗、旗、旗……。その演奏が終わると次は西ドイツ、その次はアルゼンチンと、次つぎにボールが割れて、中から16カ国の歌と踊りが飛び出しては、スタンドを楽しい興奮へ盛り上げていった。
 最後に残ったボールから、真打ちのブラジルが飛び出し、すばらしいプロポーションの黒人ダンサーが南国のサンバを披露するまで1時間30分。
 引き続いて前回のチャンピオン、ブラジルの生んだペレと、今回の開催国西ドイツの生んだウーベ・ゼーラーが相たずさえて登場して、フィールドの中央で、前回ブラジルが永久に獲得した黄金のジュール・リメ・カップと、今回新たに作ったFIFAワールドカップのトロフィーのレプリカをおたがいに贈り合った。過去4度のワールドカップで世界をわかせた2人のヒーローの儀式で、開会式の興奮はクライマックスだった。
「WM」―― この大会のシンボル・マークをフィールドに描き出した少年たちのマスゲームを背景に大会組織委員会のノイベルガー会長と、大会主催者であるFIFA (国際サッカー連盟) のスタンレー・ラウス会長が短いあいさつ、ハイネマン西ドイツ大統領が開会宣言。
 夢のようなプレリュードに酔っている間に、ブラジルとユーゴの選手たちが、いつの間にか登場して、午後5時、待望のワールドカップのキックオフになった。
 オリンピックや国体のような長々しく、形式ばった入場行進などは何もない。3人のお偉方のスピーチは合わせて4分以内だった。
 すべては、大衆の中から生まれたリズムの中に包まれ、大衆の生んだヒーローに焦点を合わせて演出され、スタンドを埋めつくした観衆の熱狂と、テレビを通じて今後、1カ月間の競技を見るであろう、世界の10億人のファンの興奮を盛り立てるように進行している。
 夢心地になって開会式の中に身を置きながら、ワールドカップとは何だろうかと、考えた。
 ワールドカップは、単なる一スポーツの世界選手権ではない。オリンピックのような、むずかしい理想を掲げた祭典でもない。
 ワールドカップは、地球の至るところに住んでいる人たちが、共通に持っている明るく、楽しい生活感情を湧き立たせるものであり、世界の大衆のフィエスタである。
 競技そのものは、選り抜かれたプロフェッショナルの、オリンピックをはるかに上まわる高いレベルの争いであるが、大会全体は常に広範な大衆とともにある。
 開幕試合のブラジル−ユーゴは0−0の引き分けだった。最初の試合はどちらも慎重になるものだからこの結果は意外ではない。

 
2 西ドイツ ―― 絶妙のオベラーツ

 6月13日の開幕試合を見て、その日の夜行列車で西ベルリンに向かった。フランクフルト−西ベルリン間は、飛行機なら1時間の距離だが、2カ月前に日本から申し込んだらすでに満席だった。やむなく東ドイツ領内を通り、8時間がかりの汽車の旅である。
 日本と違ってヨーロッパの列車は、がらがらにすいているのが常識だが、午後10時33分フランクフルト中央駅発のこの列車だけは例外だった。寝台車はもちろん無理。座席の方も、列車がホームに入ると同時に満席である。大会関係者のために半額割引きになった1等のパスを持っていたが、2等にまわり、3人がけのところに割り込んで4人がけで、やっと座席を確保した。もちろん、お客は全部、14日にベルリン・オリンピック・スタジアムで行なわれる地元西ドイツの第1戦、チリとの試合を見に行く人たちである。
 西ドイツのヘルムート・シェーン監督は今回、非常に困難な任務を背負わされている。
 第一の課題は、西ドイツの国民の間にそれぞれ熱狂的な支持者を持っている3人のスター、つまりベッケンバウアー、オベラーツ、ネッツァーの三つの個性を巧みに使いこなさなければならないことである。
 3人とも、それぞれ、きわ立った特徴を持つプレーヤーであり、しかも3人とも、チームのリーダーになるべきプレーヤーである。このうちの2人を一つのチームの中で両立させることさえ、容易ではない。しかし、ベッケンバウアーは守備の中心として欠かせないから、中盤でオベラーツとネッツァーをどう使うかが、問題だった。ベルリンでの第1戦は、この問題に対して、どういう答をファンに示すかという点で、特に注目を集めていた。
 シェーン監督の第二の課題は、1次リーグで同じグループに入った東ドイツとの初のナショナル・チーム同士の対決をどうこなすかであり、最後の課題は、もちろん地元で絶対に優勝しなければならないということである。このあとの二つの課題に解答を出すためにも、まずオベラーツとネッツァーの問題を解決しなければならない ―― ということは、このあと大会の展開とともに明らかになってくる。
 ベルリンは晴れだった。試合は夕方の4時からだが、ドイツの夏は日暮れが遅く、夜行列車で寝不足の目には、日射しがまぶしかった。
 キックオフの20分前、電光掲示板に双方のメンバーが出ると同時にアナウンスがある。西ドイツの最初のイレブンには、オベラーツの名があって、ネッツァーの名はなかった。控えの5人のプレーヤーの中にさえ、ネッツァーは入っていなかった。8万3千の観衆の嘆声が、最初はどよめきのように響き、やがてスタジアム全体から立ちのぼる巨大な陽炎のように日射しの中を立ちのぼるように思われた。
 オベラーツの中盤のパスは素晴らしかった。前年 “1FCケルン” とともに日本に来てみせた左足の魔術には、さらに洗練された鋭さがあった。
 前半18分、後方からのパスを、かかとで残して前方へ走る。それをスクリーンして受けたハインケスから中盤のパスが糸のようにつながり、攻め上がったブライトナーのシュートで西ドイツが1点をとった。
 オベラーツのパスは、簡明で単純である。徹底的に左足だけでキープし、左足のアウトサイドで、あるいはインステップで、さりげなく糸を引くようなパスを出す。
 西ドイツの攻撃は、この簡単なパスから、複雑なチームプレーの組織を組立てていた。このパスの組み立ての鮮やかさは、これまでの世界のサッカーになかった精細で鋭いものだった。味方の裏側をまわってオーバーラップして出るバック・プレーヤーへのパス、ゴール前の僅かなオープン・スペースへ出たミュラーへのパス、密集の中へ突っ込むミュラーとの壁パス、すべてはオベラーツの左足からはじまっていた。
 後半30分にオベラーツが軽い負傷をして退場し、ヘルツェンバインが出た。得点は1−0のままだったが、試合は一方的で西ドイツの勝利に危な気はなかった。
 西ドイツの第2戦は、6月18日にハノーバーで行なわれた。この試合はフランクフルトに戻ってからテレビで見た。西ドイツの試合は、他の会場の試合と時間をずらして行われるから、別の試合の都市に行っていてもテレビで必ず見ることができる。この日も午後7時半からのブラジル−スコットランドを見に行く前に、午後4時からの西ドイツ−オーストラリアをテレビで見たわけである。
 オーストラリアは、すばらしい健闘を見せていたが、西ドイツは危な気なく組織のサッカーを展開して3−0で勝った。ネッツァーは、この日は控えの5人の中にいた。
 オベラーツの左足は、いぜんとして西ドイツの軸だった。オベラーツが絶妙のプレーを見せるたびにテレビはベンチにいるネッツァーの表情をクローズアップで写し出していた。

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