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名勝負とぼくの選んだ個人賞選手 (1/4)
(サッカーマガジン1967年1月号) 


1966年度日本リーグ前期・後期総評

 日本サッカー・リーグも、いよいよ次は三年目。「石の上にも三年」というくらいだから、ブームに乗ったサッカーの三年目は、必ず、すばらしい飛躍の年になるに違いない。
 “サッカーの巨人東洋工業≠ナは、オーナー格の河村専務(日本リーグ評議会議長)が早くも
「三年目は無敗記録に挑戦、完全優勝を目ざせ」
と至上命令を発したとか。
 もとより、他のチームも、東洋工業の三連勝を指をくわえて見ているはずはなく、新戦力を加えて波乱を巻き起そうと、ただいま、ひそかに作戦計画中。
――というしだいで、もう次のシーズン開幕が待ち遠しいくらいだが、ここでは、ひとまず、盛況だった1966年のシーズンを振り返ってみよう。

大成功の二年目

 二年目の日本サッカー・リーグは、前年以上の大成功だったと思う。それは、次の三つの点から証明できる。
@観客数の急増
A新企画の成功
B試合内容の充実
――である。
 観客の増えたのはすごかった。
 後期の三菱 ― 八幡のナイターのときなど、国電の千駄ヶ谷駅を降りると、お客が切れ目なく国立競技場まで続いている。
 入口では交通整理のおまわりさんが、
 「行列を作らないで下さい。向こう側の入口がすいています」
 と、メガホンを持って汗だくだった。
 福岡平和台競技場の八幡 ― 東洋のときも、雨の中を傘をさした観衆がいっぱい。
 「サッカー・マガジン」をにぎりしめた少年たちが、食い入るように試合を見ていたのは、17、8年前、戦後のプロ野球興隆のころとムードが似ている――と思ったが、どうだろう。
 発表によると、56試合で20万1700人。一試合平均3600人。これはプロ野球近鉄の一試合平均観客数を上まわっているそうだ。
 日本リーグの一年目にくらべると五割増。リーグの関係者自身がびっくりしている。
 第二の新企画の成功としては、六月に広島と東京で行われた東西対抗が、まずあげられる。
 「東西対抗といったって、日本代表チームの紅白試合じゃつまらないんじゃないか」
 と、クロウト筋は心配していたが、心配御無用。広島で1万2000、東京で1万7000の観客を集めた。
 ナイターだったのも、成功の一因だが、何よりも、東西対抗に選ばれたプレーヤーが、観客に見てもらえるだけの技術を持つようになったということだろう。
 また、ナイターの実施、盛岡、甲府、岐阜、小野田など、地方都市への進出など、リーグがつぎつぎに打ち出した新企画は、いずれも片っぱしから成功した。
 アイデアが良かったせいもある。しかし、東京にも地方にも、サッカー・ブームの地盤が、いつの間にかできていたのである。

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