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◆ビバ!スポーツ時評

サッカー日誌  2006年10月17日(火)

◆昭和4年の協会「クーデター」◆
(10月16日、サッカー史研究会)


★初期は「東京蹴球団」が協会
 昭和4年(1929年)に日本サッカー協会(当時の名称は大日本蹴球協会)の役員が、大幅に入れ替わった。改選によって代わったのだから非合法な「クーデター」とは言えないが、クーデターのような急激な権力の交代だったらしい。
 10月16日の「日本サッカー史研究会」の第1回会合で、この事件が話題になった。福島寿男さんが「東京蹴球団」について資料を提供し、そのなかで、この事件を説明したからである。
  「東京蹴球団」は、東京高等師範、青山師範、豊島師範のOBで作られたクラブチームである。1917年(大正6年)に東京芝浦で開かれた第3回極東選手権大会に日本代表を編成して出場したのが刺激となって結成された。
 福島さんの話では、1921年(大正10年)に創立された大日本蹴球協会は、事実上、東京蹴球団だったらしい。
 
★師範系から大学中心へ
 協会設立から8年後の「クーデター」のいきさつは、当時の関係者の思い出話の記事が雑誌などに残っていて、ある程度は分かっている。早稲田の鈴木重義さんや東京帝国大学の野津謙さんたちが画策し、地方の代議員を抱きこんで、東京蹴球団の出身者から主導権を奪い取ったらしい。端的に言うと師範系から大学系への政権交代である。
 研究会で話題になったのは、この政権交代に、どんな背景があったのだろうか、ということだった。
 FIFA(国際サッカー連盟)に加盟することになったので、大学出のメンバーが必要だというのが、当時の大義名分である。
 早大と東大は、ミャンマーからの留学生だったチョウ・ディンさんに、パスをつなぐことを学んで急速にレベルをあげていた。そのために、大学勢の発言力が増したのではないかという推測もできる。

★社会的、思想的背景も?
 戦前の師範学校は主として小学校の先生を養成する学校だった。授業料免除で給費制度があったので、貧しい家庭の英才が多く進学した。
 当時の中学校(旧制)は、現在の中学と高校2年生までの年齢層が対象である。中等教育は義務ではなく、進学率も低かった時代だった。中学校に進学するのは、経済的に恵まれたインテリの家庭の子弟が多かった。大学へは主として中学校の卒業生が進学した。
 そういう出身社会階層の違いも背景にあるのではないかと、ぼくは想像した。
 また共産主義思想が浸透してきた時代なので、それを防ぐための動きもあったのではないか、という意見も出た。
 いずれも、推測で仮説の域を出ない。しかし、いろいろな人が自由に考えを出せたので、研究会を企画したかいがあったと思う。今後、月1回のペースで続けることになっている。 

 

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