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サッカーマガジン 2002年10月23日号
ビバ!サッカー

ワールドカップの総括L
藤田静夫さんの功績を偲ぶ

 日本サッカー協会の元会長、藤田静夫さんがなくなられた。京都サッカー友の会を作って地元の底辺拡大に努力する一方でアジアをかけめぐって日本のサッカーの地位を上げるために活躍された方だった。日本でワールドカップを開催することを夢見ていた長老の一人でもあった。

井戸を掘った人
 日韓共催のワールドカップが開かれたことし、2002年は日中国交正常化30周年だった。 
  田中角栄首相が北京へ行って中国の首脳と会談して国交関係を結んだのが1972年である。そのとき中国の周恩来首相が「水を飲むときには、井戸を掘った人を忘れない」という中国のことわざを引用して感慨を述べた。その話を30年ぶりに思い出した。
 周恩来首相の言葉には、次のような意味がこめられていた。
 これからの日中関係は正式に政府間の付き合いになる。表に立って脚光を浴びるのは両国政府の大臣など政府や公的団体の要人だろう。しかし、それまで敵対している両国の間で水面下で接触を保ち、関係を正常化しようと努力してきた多くには民間人がいた。かげで政府の意向を受けていた人もいたが、民間人の肩書きで活動していた。そういう人たちは、これからは表舞台から姿を消す。しかし、その陰の功績を、中国政府は忘れないだろう。「井戸を掘った人びと」には、そういう意味がこめられていた。
 日本サッカー協会最高顧問の藤田静夫氏が、9月27日になくなった。その報せを受けて、ぼくは周恩来の「井戸を掘った人」を思い出した。
 2002年ワールドカップは、すばらしい成功を収めた。その栄光の水を飲んだ人びとは得意満面だろうが、そのかげに、日本でワールドカップを開催しようと夢見て努力した先輩たちがいたことを忘れてはならない。藤田さんはワールドカップの井戸を掘った大先輩の一人だった。

アジアでの功績
 藤田さんは1987年から1992年まで日本サッカー協会の第6代会長だった。もともとは京都師範、いまの京都教育大学の出身で、京都のスポーツ界の大御所だった。京都師範サッカー部のOBを中心としたクラブが「京都紫光」で、これが京都パープルサンガのルーツである。
 ぼくが知っている戦後の歴代の日本サッカー協会会長のなかで、日本のサッカーのために自分のポケットから、かなりのお金を出したのは藤田さんだけである。他のお偉方は自分が勤めている企業の経費で落とすか、協会の経費で仕事をしていた。それが悪いというつもりはないが、サッカーのために私財を投じた人は少ない。
 藤田さんは資産家だったから、私財を使うことができた。ぼくがご馳走になったことなどは、もちろんものの数ではない。外国のサッカーのお偉方が日本にきたときに、いろいろな「もてなし」をし、自分のお金で外国に出掛けてサッカー外交を展開した。とくに1970年代から1980年代にかけてアジアのサッカー関係者から深く信頼されていたことは歴史に留めておくべきである。
 その功績を、その後の日本サッカー界の幹部はムダにした。それが、アジアサッカー(AFC)連盟のなかで日本が主流になれなかった大きな原因だと思う。ワールドカップ開催の成功を足場に、小倉純二さんがアジアサッカー連盟からFIFA(国際サッカー連盟)の理事に当選した。藤田さんの築いたアジアの信頼を、やっと回復できたと思う。

3人の大長老
 ワールドカップが始まる直前に、大阪の朝日新聞夕刊を担当している記者から電話が掛かってきた。
 「ワールドカップを日本で開催しようという夢が、やっと実現して喜んでいらっしゃるサッカー界の長老はいないでしょうか。記事に取り上げたいんですが教えてください」
 「それは、ぼくですよ」と、のどもとまで出かかったが、ぼくは「長老」ではない。「老」のほうは、そろそろ大きな顔をしてシルバーシートに座れる歳になってきたが、どうみても「長」ではない。
 「ワールドカップの井戸を掘った」人を、ぼくは3人知っている。
 ひとりは大正時代の協会設立当時の役員だった新田純興さんである。1960年代にワールドカップを日本に紹介し、ジュール・リメの「ワールドカップの回想」(ベースボール・マガジン社刊)の日本語訳を出すように、ぼくに指示した方である もうひとりは協会会長だった野津譲(のづ・ゆずる)さんで1970年のメキシコ・ワールドカップのときにワールドカップ日本開催を思い立ち、そのためのキャンペーンを、ぼくに指示した方である。
 でも、この2人はすでになくなっている。
 もう1人が藤田静夫さんだ。
 朝日の記者が藤田さんのお宅に電話したら、ご病気で入院中だった。そのため、退院されるのを待ってインタビューした記事が朝日新聞に掲載された。
 いまとなっては藤田さんへの、せめてもの恩返しになったのではないかと、ぼくは思っている。


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