2週にわたって中断した「ワールドカップ史への異考」を再開する。第2次大戦前のウルグアイがなぜ強かったのか。1966年大会の北朝鮮の番狂わせの背景はなにがあったのかなど大会史の側面の話題を拾ってきた。今回はブラジル黄金時代が生まれた原因を探ってみる。
第9回メキシコ大会
20世紀最高のスポーツ大会は? と聞かれたら「1970年メキシコのワールドカップだ」と答えていいのではないか。ワールドカップの歴史のなかで最高の大会だったことは間違いないと、ぼくは信じている。
他のスポーツでも、いい大会はあっただろう。整然と運営された点では1964年の東京オリンピックもすばらしい大会だった。トラブルは少なく、競技の内容もよかった。しかし、いま振り返ってみると、政府主導で、いわば「おかみの手で」開かれた大会だった感じがする。大衆が盛り上げ、世界をわかせたワールドカップのすばらしさとは質が違う。
ワールドカップの第9回メキシコ大会では、ブラジルが黄金期の絶頂にあった。ブラジルは、ペレが円熟のプレーで中心となり、3度目の優勝を遂げて黄金の女神像のジュール・リメ・カップを永久に保持することになった。
ワールドカップの歴史を、ぼくは次のように分けて考えている。
まず、ワールドカップが創設される前の準備期である。第1次世界大戦後に大西洋の海運が発展し、ウルグアイのサッカーが、ヨーロッパを驚かせたころだ。第2次世界大戦前の3つの大会が創世期で、このときすでに大会の基礎が築かれた。戦後のブラジル大会とスイス大会が復興期である。
そして1958年第6回スウェーデン大会から1970年の第9回メキシコ大会までが、ブラジルの黄金期である。この間にブラジルは4度の大会で3度優勝した。
戦前に毎回参加
この「ブラジルの黄金期」が、どのようにして、なぜ生まれたのかが今回の「異考」のテーマである。
東京・北千住の読売・日本テレビ文化センターで開いている「ビバ!サッカー講座」でも、このテーマを考えてもらった。仲間からいろいろな意見が出たなかに「第1回以来、欠かさず参加した経験が実を結んだのだろう」というのがあって「なるほど」と思った。 これは、ぼくがこれまで見落としていた考え方である。
ブラジルは第1回大会ではユーゴスラビアに、第2回大会ではスペインに敗れている。第3回大会では1回戦でポーランドに延長戦のすえ辛勝、2回戦ではチェコスロバキアと延長引き分け、再試合で勝ったが、準決勝でイタリアに2対1で敗れた。
こうしてみると、第2次世界大戦前のブラジルのサッカーは、それほど強いとはいえない。第1回大会では大西洋を船旅で渡ってきた東欧勢に負けている。しかし、しだいに力を付けてきたことは、第3回大会で、優勝したイタリアに食い下がっていることでもわかる。
第2回大会はイタリアで開かれ、南米勢ではタイトルを持つウルグアイがボイコットした。しかしブラジルはアルゼンチンとともに参加した。
第3回大会は戦雲急だったヨーロッパのフランスで開かれ、南米勢で参加したのはブラジルだけだった。
船で大西洋を渡らなければならなかった時代に、また国際情勢が険悪だった時代に、欠かさず参加して欧州のサッカーに触れた経験が戦後に実ったと考えるのが正しいだろう。
黒人の少年の成長
第2次世界大戦後の最初のワールドカップは1950年にブラジルで開かれた。リオデジャネイロに世界最大のマラカナン・サッカー場を建設し、20万人以上の観客を集めたと言われるウルグアイとの対決でブラジルが逆転負けして「マラカナンの悲劇」として歴史に残る大会である。
ブラジルにとって悲劇の大会ではあったが、これがブフジル黄金時代へのバネになった、という説が北千住の仲間の意見のなかにあった。
地元での開催は、ブラジルのサッカー熱を剌激しただろう。とくに小さな子どもたちはスター選手たちの活躍に目を見張る思いだっただろう。
刺激を受けた子どもたちが世界を目指しはじめた。また地元での開催で世界のプレーを目のあたりにした指導者が、そういう子どもたちを育てた。
ペレは1950年には9歳、小学校4年生くらいだったはずである。ワールドカップヘデビューしたのが17歳。3度目の優勝へ導いたメキシコ大会のとき29歳。ペレの時代とブラジルの黄金時代へ向けての最初のスタートがワールドカップの地元開催だったという説はうなずける。
ブラジルでは1920年代から30年代にかけて、サッカー界での黒人差別が崩れはじめた。それによって進出してきた黒人選手が代表チームの主力を占めるようになった。それも黄金時代を生んだ一つの要因だろう。
メキシコ70の次の大会から、欧州と南米が互角に競いあうワールドカップの新しい時代が始まる。
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