アーカイブス・ヘッダー

 

   
サッカーマガジン 2002年2月27日号
ビバ!サッカー

ワールドカップ史への異考C
ブラジル黄金時代のはじまり

 ワールドカップの歴史のなかで1958年の第6回スウェーデン大会は特別な意味をもっている。ペレが登場し、ブラジルの黄金時代がスタートし、4−2−4のシステムが世界に紹介された。「世界のサッカーを変えたスウェーデン大会」に焦点をあててみる。

第6回スウェーデン大会
 スウェーデンで開かれた第6回ワールドカップは新しい時代の始まりだった。第2次大戦前の創世記の3大会、大戦後の復興期の2大会に続いて世界のサッカーの黄金時代がスタートした。この大会からブラジルが3度目の優勝を飾る1970年の第9回メキシコ大会までを「ブラジルの黄金期」と呼ぶことができる。
 スウェーデン大会でブラジルが初優勝した。南米と欧州の争いで、他の大陸のチームが優勝したのは、これが初めてで、その後は出ていない。そして1970年メキシコ大会までの4大会のうちブラジルは3大会に優勝している。
 このブラジルの黄金時代の象徴がペレたった。
 ペレはスウェーデン大会に17歳でデビューし、準決勝でのハットトリック、決勝戦の3点目のアクロバットのようなゴールで、たちまち世界のスターになった。第7回チリ大会、第8回イングランド大会では、きびしくマークされて負傷退場し、ほとんど活躍できなかったが、1970年メキシコ大会では、3度目の優勝の原動力となった。ブラジルの時代のスタートは、ペレの時代のスタートでもあった。
 スウェーデン大会のもう一つのトピックは、ブラジルが世界に紹介した4−2−4−のシステムである。この新しいシステムがもとになって、このあとサッカーの戦い方は大きく変わった。
 スウェーデン大会で、ブラジルが世界のサッカーを大きく変えたということができるだろう。

新しいシステムの登場
 ブラジルの4−2−4では、イレブンのうち、ゴールキーパーを除く10人を後からディフェンダー4人、ミッドフィールダー2人、フォワード4人というように並べる。
 このように布陣(システム)を数字で示すことをぼくが知ったのは、スウェーデン大会のときである。当時、かけだしのスポーツ記者で、新聞社に送られてくる外電を読んでいて知ったと記憶している。
 そのころ、日本やヨーロッパの多くのチームが使っていた布陣は「WMフォーメーション」と呼ばれていた。ゴールキーパーを除く10人をフォワードとバックの二つのグループに分ける。フォワード5人のうち両翼のウイングと中央のセンターフォワードが最前線に開いて並ぶ。内側にインサイド・フォワード(インナー)がやや下がり目にいる。この5人がWの字の形に並んでいるわけである。
 バック5人は中盤に2人が進出していてハーフバックとよばれた。なかば後方にいるという意味だろう。いまでいうディフェンダー3人が最後尾にいる。両翼がフルバックで中央にもう1人いる。5人がMの字に並ぶ形である。
 最近の若い人は、こういうシス〒ム(布陣)のうつり変りを案外、知らない。それで、くどいようだけど、ここに紹介したわけである。
 ブラジルの4−2−4は、その後、4−3−3や4−4−2と変わっていって、現代のシステムの基礎となった。その意味で1958年大会は大きな曲がり角だった。

4−2−4の起源は?
 WMと4−2−4とでは考え方がまったく違う。おおまかにいえば、4−2−4はポジションが流動的で、プレーヤーにオールラウンドな能力を要求するシステムである。WMが攻守分業的だったのにくらべて、全員攻撃、全員守備である。
 ところで、この4−2−4のシステムは、いかにして生まれたのだろうか。これが、ぼくには、いまだによく分からない。「1950年代にパラグアイが使いはじめたものをブラジルが取り入れた」と書いてある本もあるが、それならパラグアイでは、いかにして作り出されたのかを知りたい。
 「ハンガリーのM」と並べて論じている本もある。1950年代のはじめに連戦連勝したハンガリー代表の布陣はフォワードがM型たった。インサイドが前線に出て、両サイドとセンターフォワードが下がり気味になっていた。これはWMの変形でブラジルの4−2−4と直接の関わりはないと思う。ブラジルの4−2−4を関連づけて説明するのはおかしいと思っていたら、なんと、ぼく自身も犯人だった。
 1974年の西ドイツ大会のあとにぼくが出した「サッカー、世界のプレー」という本のなかに「ハンガリーのMは実際には、形のうえでは4−2−4に似ていた」と図まで入れて説明している。すっかり忘れていたのだが、最近、自分の本を書棚から出してぺらぺらめくっていて気が付いた。
 この記述は誤解を招く。28年ぶりに取り消しておきたい。


前の記事へ戻る
アーカイブス目次へ

コピーライツ