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サッカーマガジン 1999年12月15日号
ビバ!サッカー

エスパルスの優勝に思う
清水を育てた底辺の育成

 Jリーグの第2ステージで清水エスパルスが優勝した。「よかった」と思う。底辺からトップへ積み上げることを試み、地域のチームとして育てるために長年にわたって苦労した志が、ようやく一つの実を結んだのだと思う。名産のミカンのようにさらにたわわに実らせてほしい。

頂上か、底辺か
 富士山論争というのがある。
 スポーツ振興のために、トップレベルの強化が先か、底辺の拡大が先かという議論である。
 オリンピックで金メダルをとるような世界的なスターを育てれば、それが引き金になってスポーツが盛んになる――というのが富士山噴火説である。トップを噴火させるのが先だというわけである。
 これに対して、富士山は広い褐野の上にそびえているのだ――と主張する人もいる。富士山底辺説である。まず競技人口を増やす必要がある。そのなかからトップレベルの選手が育ってくるという理論である。
 いまから40年近くも前、1964年の東京オリンピックを控えての選手強化について、当時の日本オリンピック委員会(JOC)の総務主事だった田畑政治さんと、選手強化本部長だった大島鎌吉さんが、そういう議論をしていたのを聞いていたことがある。     
 田畑さんは水泳連盟の会長だったが名選手の経歴はない。水泳界の中で行政手腕を発揮してきた人だった。一方、大島さんは陸上競技でオリンピックのメダルをとった名選手である。
 それぞれの経歴が、それぞれの主張の背後にあった。
 ぼくは、スポーツ記者の若造だったので黙って聞いていた。すると田畑さんが突然、ぼくのほうを向いて、こう言った。
 「サッカーはたいへんだな。一人だけが爆発しても、チームは盛り上がらないからな」

東京五輪の強化
 富士山を仰ぎ見る静岡県の清水でエスパルスが優勝したのは、据野からの盛り上げが成功したのだと、ぼくは思う。
 田畑―大島の富士山論争のころ、日本のスポーツ界の中でのサッカーの地位はひどいものだった。
 1960年のローマ・オリンピックの時に「次は東京だから」というわけで、日本の経済はいまのように豊かではなかったが、全競技に参加する方針を田畑さんが打ち出した。ところが、サッカーはアジアでの予選に負けて、ローマへの出場権を得られなかった。
 いまはバレーボールやバスケットボールでも、オリンピック出場権をかけた国際競技会をやっているが、その当時は本格的な予選をやるスポーツはサッカーだけだった。
 そういうわけで、日本のオリンピック競技のなかで、サッカーだけがローマに行けないという惨めなことになった。
 しかし、4年後の東京オリンピックまでには、なんとかしなければならない。そこでドイツからコーチを呼び、一握りの選手たちによるトップチームだけの強化で間に合わせることになった。 
 つまりサッカーでは、一人だけの噴火ではダメだが、なんとか11人を噴火させようとしたのである。 
 杉山隆一、釜本邦茂などが、こうして育った。東京オリンピックでは、アルゼンチンに勝ってベスト8に進出した。
 しかし、それが据野を広げるには長い時間がかかった。

少年団育成の成果
 東京オリンピックのあと、代表チームの小さな噴火に満足しないで、据野を広げる工事をすぐにはじめたのが、30有余年の歳月を要したけれども現在につながっている。
 当時の日本サッカー協会の実力者だった小野卓爾さんが、全国の少年サッカーの指導者を集めて協議会を開催したのが、底辺拡大工事の起工式である。 
 少年サッカーのコーチを集めたのではない。コーチも含まれていだけれども、主として運営担当の指導者を集めた。小野さん自身が、水泳の田畑さんと同じで名選手出身でなかったのが、そういう方針につながっていたのだと思う。 
 その協議会に参加した若い指導者のなかに、静岡県清水市の小学校の先生だった堀田哲爾さんがいた。 
 堀田さんは、その協議会で聞いた話を持ち帰り、それを土台に自分白身の夢をふくらませてサッカー少年団の組織をつくり、清水をサッカーの町にした。市川をはじめ清水出身のJリーガーが、そういう底辺の土壌のなかから育ってきた。 
 清水エスパルスの優勝は、そういう底辺の組織作りの長い努力の結実である。 
 サッカーでは、頂上噴火よりも据野拡大のほうが先だと思う。その意味でもエスパルスの優勝を祝いたい。 
 堀田哲爾さんは清水で不祥事に巻き込まれて、サッカーの表舞台からは姿を消した。 
 事情はあったのだろうが、その功績は歴史のなかで正しく評価されなければならない、と思う。


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