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サッカーマガジン 1997年10月29日号
ビバ!サッカー

加茂監督解任の背景は?

 日本代表が東京で韓国に手痛い逆転負けをした翌日、モスクワ経由でアルマトイに飛んだ。10月4日のカザフスタン戦は、またも終了まぎわの失点で引き分け、その夜のうちに加茂周監督は解任された。翌日、タシケントへ。日本代表とともに行く中央アジアの旅は楽しくない。

☆敵中の指揮官交代
 10月5日、アルマトイからタシケントに飛ぶチャーター便の中に、加茂周監督の姿はなかった。前日の夜に日本サッカー協会の首脳部が解任を通告し、チームを離れて帰国することになったからである。
 翌6日、タシケント郊外の小さなスタジアムで行なわれた日本代表チームの練習は、岡田武史・新監督が指揮を執った。コーチからの昇格である。
 ワールドカップ・アジア最終予選は、半ばにさしかかったところである。この時点で監督を替えるのがいいかどうか、これは難しい問題である。
 協会の首脳部は、思い切った決断をしたと思う。敵中で部隊長を交代させたようなものである。部隊が総崩れになる危険を伴うが、この決断で部隊の士気が燃え上がり、戦況を逆転させることができる可能性もある。
 「流れを変えるためだ。このままでは、韓国に逆転負けした影響を、いつまでも引きずることになる」と、長沼会長は説明した。長沼会長は。この決断の責任者である。失敗すれば当然、責任を取る覚悟があってのことだろう。
 「カザフスタンに勝っていれば、ムードは変わったんだろうけど…」と訊いてみたら、長沼会長はこう答えた。「3対0くらいで勝っていればね」
 カザフスタンとの試合は、終了直前の失点で引き分けだったが、仮に1対0のまま逃げ切っていたとしても、監督の首をすげ替えるつもりだったのかな、と推測した。

☆決断を支持する!
 結論を先に言えば、ぼくは加茂解任の決断を支持する。
 第1の理由は、次の週のウズベキスタン戦の結果を見てからでは遅いからである。部隊が浮き足立ってから指揮官を替えても、兵隊はもう部隊長の方を見ていないから、総崩れは避けられない。替えるのであれば。まだ戦線を立て直す可能性が残っているうちでなければ、ならない。
 第2の理由は、加茂監督の用兵にツキがなかったことである。韓国戦でも、カザフスタン戦でも選手交代が裏目に出て、ジャーナリズムの批判を浴びた。こういうものには運、不運もあって、丁に張れば半が出て、半に張れば丁が出ることが続く場合もある。しかし不運が続けば、本人は心の余裕も失うし、周りの人々の信頼感も薄らいでくる。だから、用兵の失敗が、仮に単なる不運であったとしても、ここで思い切って人心を一新する必要があった。
 決断を支持する第3の理由は、選手たちのプレーぶりに「燃え上がるもの」が感じられなくなってきていたことである。一人ひとりの選手は、もちろん「勝ちたい」と思っているし、頑張っているつもりに違いない。しかし、思うように体は動いていないし、チームワークも悪くなっていた。これは1つには、心と体の疲労が抜け切れていないままに、これまで通りの練習や戦法を惰性的に、続けていたからではないか。そうであれば、ここで、チームの在り方を思い切って変えて、選手たちを「燃え立たせる」ために、ショック療法を試みる必要がある。

☆10年遅かった結果
 結論としては、この時期での監督解任は、やむを得ない措置と思うが、そうかといって、それまでの日本サッカー協会のやり方や、今回の措置のプロセスに、全面的に賛成しているわけではない。
 思い出すのは、3年前に書いた記事である。
 加茂監督が就任したときに、「ビバ!サッカー」に、こう書いた。「加茂周の監督の起用は10年遅かった」
 加茂監督は、日産(現在のマリノス)で、すぐれた実績を残した。監督としてプレーヤーを育て、トレーニングの方法を改善し、新しい戦法を研究した。それだけでなく、ゼネラル・マネジャー役として、親会社を動かして、自分自身を支援してくれる環境を構築した。そのアイディアと実行力で、当時ライバルだった読売クラブ(現在のヴェルディ)に追い付き、追い越した。日本サッカー協会は、その当時に加茂監督を起用すべきだった――というのが、ぼくの考えだった。
 10年遅れた間に、日本のサッカー環境が変わり、選手の気質が変わった。
 Jリーグ・ブームのなかで、選手たちは、プロの大スターのつもりになり、自分自身に対する厳しさを忘れかけていたのではないか。
 協会首脳部は、お金を使って物事を解決することに慣れ、加茂監督に心のこもった支援環境を作ってやることを、忘れていたのではないか。
 加茂解任は、10年の時差の結果が、今になって出てきたものではないかと思う。


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