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サッカーマガジン 1996年6月5日号

ビバ!サッカー

ヴェルディに何か起きたか?

 ネルシーニョ監督の突然の辞任、レオン監督の就任、ラモスの京都への移籍――小さな雪の固まりが転がりだしたと思ったら、あっという間に大雪崩(なだれ)になった。ヴェルディにいったい何が起きたのか。読売クラブのころからの伝統は、もうおしまいになったのか!

☆読売クラブは終わった
 ネルシーニョ監督の辞任からラモスの移籍に至るまでの経過は、すでにあちこちに書かれているから、ここには繰り返さない。
 ぼくの感想は「読売クラブは終わった」ということだけである。
 ヴェルディの母体は、読売サッカークラブだった。学校や企業のチームではないクラブのサッカーをめざして、そして将来のプロを展望して1969年に設立され、東京リーグから出発して日本リーグ1部で優勝するまでに14年かかった。
 設立当初は、ドイツのサッカーの影響を強く受けていた。1964年の東京オリンピックのために招いた西ドイツのデットマール・クラマーさんの指導法が日本の主流になっていたためである。
 ついで、いま新潟で指導しているオランダ出身のファン・バルコム監督の指導で、新しいスタイルに変わった。これはディフェンダーの攻撃参加に特徴があり、当時としては新しいサッカーだった。
 その後、いろいろないきさつを経て、ブラジルから来たジョージ与那城とラモスが中心となって、読売クラブ独特のスタイルが出来上がった。
 新しいプレーが、いろいろ試みられた中でも、ゴール正面の壁パスによる密集突破が独特のものとして印象に残っている。
 この読売クラブのスタイルが、ヴェルディと名前が変わってからも引き継がれて発展していた。
 しかし、ラモスが去ってしまえば、読売クラブのサッカーのスタイルは、もう終わりである。

☆ラモスとジョージ
 読売クラブのサッカーを作ったジョージ与那城とラモスは、ブラジルから来た。だから読売クラブのサッカーが、ブラジル・スタイルであることは当然だ。
 しかし、これは出来合いのブラジル・スタイルではなかった。ジョージとラモスが、ブラジルから持ってきたのは、ボールを扱う面白さと、自分のアイディアでプレーする楽しさである。出来上がったチームプレーやスタイルや戦法を持ってきたわけではなかった。
 なぜならジョージもラモスも、来日したときは10代の若い青年で、いま日本にきている外国人選手のような一流のプロではなかったからである。ブラジルのトップクラスのサッカーを、そのまま日本で教えたわけではなかった。
 2人は、ブラジルの子どもたちが町の通りでボールを蹴っているような感覚をそのまま、日本へ持ってきただけだった。
 2人の感覚に、そのころ読売クラブにいた若者たちが呼応し、みんなの力で新しいスタイルのサッカーが出来上がってきた。
 歴代の監督やコーチの影響は、もちろんあっただろう。しかしチームのスタイルは、独自に作り上げたものである。 
 つまりブラジル原産の種子が輸入されて日本の土で芽をだし、日本の種とも混血して、日本の風土で大きく育ったのである。 
 読売クラブのサッカーは、ブラジルから輸入されたものでなく、日本で作り上げられたものである。

☆新しいスタイルは?
 今回の騒ぎは結局のところ、ラモスがヴェルディにはいられなくなったということではないかと思う。
 ラモスは、個性が強く、思ったことを、歯に衣着せずにいう男だから、これまでにも、いろいろトラブルを起こしてきた。自己主張をすることは悪くないと、ぼくは思うが、日本では謙譲の美徳ということがあって、個性が強すぎるとうまくいかないことも多い。
 ラモスの自己主張をコントロールするために、歴代のフロントは、さまざまな苦労をしてきた。プロができる前は、選手の方の立場が弱いこともあって、なんとかしのいできたのが本当のところである。
 Jリーグになって、選手たちの立場が強くなった。ラモスは非常に多額の報酬を得ることができるようになった。
 フロントとしては、あまり自己主張をするようなら、他のチームに移ってもらって、高額の給料を節約した方がいいという気になる。ラモスのケースも、それに近かったのではないか。
 ラモスを切れば、読売クラブのスタイルも、おしまいになることは、ヴェルディの首脳部には分かっているだろう。それでも、あえて移籍させざるをえない、と判断したに違いない。
 読売クラブのサッカーが、おしまいになったあとに、新しいスタイルを作り上げるのは容易ではない。
 だから、ぼくはヴェルディの今後については悲観的である。立て直しには時間がかかると思う。


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