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サッカーマガジン 1994年11月16日号

ビバ!サッカー

加茂監督への期待と不安

 日本代表チームの新監督に加茂周氏が決まった。旧日産自動車(現在のマリノス)の監督として残した実績からみて妥当な人選である。個性鋭い現代っ子プレーヤーをまとめるのは、たいへんだろうが、新しいアイディアを次つぎに試みてきた卓抜な実行力に期待したい。

☆10年遅いよ!
 「ファルカンの後任に加茂周って話が出てるんだけど…」
 友人が電話で情報を入れてくれたときに、ぼくは思わず叫んだ。
 「10年遅いよ!」
 加茂周監督の日産が日本リーグの1部に昇格したのは1979年、いったん2部に落ちたが1シーズンで復帰し、強力な補強をして1983年と84年は連続2位だったが、83年と85年に天皇杯をとって日本のトップクラスの一つにのしあがった。
 日産を育て上げた才能が評価されはじめた当時から数えれば「10年」ということになる。 
 日産は88〜89年と89〜90年には2シーズン連続でリーグと天皇杯の2冠。この時点で加茂周監督の手腕への評価は確定した。
 そのころ、日本代表の監督交代を求める声がファンの間に噴出して「加茂周待望論」が叫ばれた。
 この時点から数えれば5年で、正確にいえば「5年遅いよ」というのが妥当かもしれない。 
 あの当時、なぜ加茂周を起用できなかったのか、あのとき反対した強化責任者は誰だったのかと、ぼくは今でも不思議に思っている。 
 ともあれ、遅れはしたけれども、加茂周監督の力量が認められたことを喜びたい。 
 そして日本サッカー協会と、その強化委員会には、新監督が思い通りに腕をふるえるよう、へたな干渉をしないように、お願いしたい。 
 というのは、もっとも実績のある、個性の強い監督に、好きなようにやらせてみたいからである。

☆闘争心と実行力!
 10年前――。
 監督として頭角を現しはじめたころ、加茂周は、こう考えていた。
 「あらゆる点で読売クラブを上回るチームを作ろう」
 これは、ご本人の口から直接聞いた話である。
 今のヴェルディの前身である読売サッカークラブは、1978年から日本リーグの1部に昇格し、80年代に入って日本のトップに立つチームになっていた。
 加茂周監督は、この読売クラブにただ単に「勝ちたい」と考えただけではない。あらゆる点で読売クラブを上回るクラブに日産を育てたい、と考えた。
 当時、サッカーのプロは、日本では正式には認められていなかったが、読売のプレーヤーは事実上、ブロだった。加茂監督は、日産のプレーヤーにも、同じようにサッカーに打ち込める環境を作ってやり、読売のプレーヤー以上の収入が得られるようにしてやりたい、と考えた。
 練習グラウンドも、クラブハウスも、読売クラブより、いいものを作ってもらいたい、と考えた。
 こういうことは、グラウンドの上で、プレーヤーだけを相手に出来ることではない。
 あるときは会社を相手にし、あるときはサッカー協会を相手にして、あるときは粘り強く、あるときは、けんか腰で交渉する必要がある。
 ぼくは、このような加茂周の実行力に期待している。また読売クラブにライバル意識を燃やしたような、闘争心にも期待している。

☆5年遅れ?の不安
 5年前――。
 「加茂周を日本代表の監督に」という世論が、沸き上がっていたときに、日本サッカー協会は、どういうわけか加茂周を毛嫌いした。
 本当の理由は、今もって分からないが、ご本人は、冗談混じりに、こう言っていた。
 「多分ね。私が監督になったら、読売と日産の選手だけで日本代表チームを作るんじゃないかと心配したんでしょう」
 そして、こう付け加えた。
 「実は、もし監督になったら、本当に、日産と読売のプレーヤーだけで日本代表チームを編成してみたいと思っていましたけどね」
 このとき、加茂周監督のもとで、日産と読売を主力にした日本代表が編成されていたら、非常に面白かっただろうと思う。
 当時の日産や読売のプレーヤーは、個性の強い連中ではあったけれど、サッカーにひた向きな情熱を燃やしていた。加茂周は、そういう、個性と情熱をまとめていく力を持っていたからである。
 しかし、これからの日本代表の候補は、必ずしも、かつての読売や日産のプレーヤーのような、ひたむきなだけの若者ではない。Jリーグ・ブームのなかでスターになって、いささかテングになったりしている。
 そういう新世代の若者を、新監督がうまく自分の駒にして使いこなせるかどうか。これは、ちょっと不安なところである。
 だから「10年、いや5年遅いよ」と言いたくなるわけである。


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