本物の真剣勝負の魅力!
一流選手の対決とマラソン日本の活躍が盛り上げたが……
8月23日から9月1日まで、東京で第3回世界陸上選手権大会が開かれた。ぼくは、組織委員会の運営委員にしてもらったので、この大会を内側から見ることが出来た。忙しかったけれど、なかなか面白い経験だった。
内側からは、いろいろアラも見えなかったわけではないが、概して言えば、大会は大成功だったと思う。
開会式と競技初日は、ちょっと盛り上がりに欠けたようだけれど、3日目朝の女子マラソンで日本の山下佐知子が銀メダルをとって、一般の人たちの関心を引き付けた。
その日の夕方の男子100メートル決勝ではカール・ルイスが驚異的な追い込みで同僚のレロイ・バレルをかわし、世界新記録で優勝した。
このルイスとバレルの迫力あふれる対決が、大会のムードをがらりと変えたと思う。
女子マラソンの銀メダルにつられて、テレビのチャンネルをまわした人たちが、ルイスの走りの豪快さに目をみはって「これは、すごいぞ」という気持になり、それからテレビの視聴率も、観客の出足も、どんどん良くなった。
それに応えたように、競技の内容も充実していた。男子走り幅跳びでマイク・パウエルが、23年ぶりに世界記録を破り、女子では、統一されたドイツのカトリン・クラッペが100と200に金メダルをとって、大会の女王になった。
男子走り幅跳びのパウエルとルイスの争いでは、勝負の面白さを十分に見ることが出来た。棒高跳びのセルゲイ・ブブカは、したたかな駆け引きの面白さを教えてくれた。
そして最終日の男子マラソン。中山竹通が前半ずっとリードしながら途中で消え、代わって頑張り屋の谷口浩美が、じりじりと上がってきて優勝した。地元日本の金メダルが、最後を見事に締めくくった。
こうしてみると、世界陸上が成功したのは、まず第一に世界の一流選手が揃って本物の勝負を見せてくれたからであり、つづいて地元日本の活躍があったからだと思う。本物の役者が真剣に演技してくれて、ひいきの役者も、ちゃんと花道を踏んでくれれば、楽屋が多少がたがたしていても、舞台は引き立つし、客席も沸き立つわけである。
「さて、そこで」と、ぼくは当然考えた。「2002年のワールドカップは、これ以上の大成功であって欲しいものだ」
サッカーの世界選手権ワールドカップの日本開催は、招致運動がスタートしたばかりで、まだ決まったわけではないが、もし日本開催になれば、日本にくるチームが世界最高の顔触れになることは疑いない。親善試合ではみられない厳しい勝負が展開されることも間違いない。
問題は、地元の役者たちが、ちゃんと活躍して、ごひいきに応えてくれるかどうかである。男女のマラソンみたいには、いかないんじゃないかと、これはいささか、気掛かりである。
国際的な報道サービス
フラッシュ・インタビューを運営して難しさを体験した!
世界陸上で、ぼくは主として「フラッシュ・インタビュー」の運営を引き受けた。これは、ちょっと変わった経験だった。
各種目の決勝が終わった直後にメダリストの談話を取材し、記者席に迅速に提供するのが仕事である。
チェコスロバキア、米国、フィンランド、イタリア、日本の5カ国から計5人のインタビューアーが集まった。1人で数カ国語を話し、ジャーナリズムの経験を持ち、陸上競技をよく知っているベテランぞろいである。
インタビューアーは、スタンドの下の作業室に待機している。どんな言葉を話す選手がメダルをとるかは決勝が終わるまで分からない。そこで終わってから、自分の担当する言葉のメダリストの談話を取りに飛び出す。
談話はすぐに4行程度の英語の原稿にする。それを印刷して記者席に配ると同時に、コンピューターにも入れて、記者席にあるモニターテレビの画面で文字情報として見ることが出来るようにする。 ざっと、こんな仕事だった。
速報は、だいたいは、うまくいった。決勝が終わって、記者席に談話速報を配るまで約30分、早いときは20分だった。
メダリストの公式記者会見は、あとで、ちゃんとするのだが、原稿の締め切り時間が迫っている記者は、それまで待てないから、この速報が便利である。
また、いろいろな種目が続けざまに行われるので、記者会見に出ていたら、次の種目を見損なう。だから記者席に座ったままで次々に談話速報が手に入るのは、全種目をきちんと見たい記者には都合がいい。
というわけで、フラッシュ・インタビューの試みは成功だったと自画自賛しているのだが、問題がなかったわけではない。
5カ国から来たインタビューアーが、英語を共通語として仕事をするために、5人5様の英語の原稿の中には分かりにくいものもあった。
言葉の違いより厄介だったのは考え方の違いだった。どんな話が面白いか、どんなテーマが重要かについて、お国柄でそれぞれ感覚が違う。そのうえ、サービスを受ける記者はもっと多くの国から来ているのだから、その全部に役立つ談話速報を提供するのは不可能に近かった。
サッカーのワールドカップでは、もっと親切で詳しい報道サービスが行われている。サッカーの場合は1会場で試合をするのは2カ国だけだから言葉の問題は比較的簡単なようだが、試合は各地に分散して行われるから、その情報を全部、一括して提供するシステムを作るにはもっと大きな組織が必要である。
報道陣は世界中から来ていて千差万別、国際的な難しさは陸上競技と変わらない。
いずれにせよ、2002年に備えて、日本のサッカーも国際的な仕事に慣れておく必要がある、というのが、畑違いの陸上競技の仕事を手伝った、ぼくの感想である。
ボランティアの難しさ!
大衆の力で盛り上げるべきだが専門家との連係が課題だ!
なぜ畑違いの陸上競技の大会に協力したかを説明するには、7年前のロサンゼルス・オリンピックまで、さかのぼる必要がある。
特派員として現地に行って、まずやることは、プレスセンターに行って記者登録の手続きをし、大会の身分証明書になる顔写真入りのカードを作ってもらうことである。
ロサンゼルスで、ぼくのカードを作る面倒を見てくれたのは、初老の品のいい紳士だった。話を聞いたら自分で会社を経営している社長さんだということだった。
「わが町でオリンピックをやるのは滅多にないことだからね。会社は友達に任せて志願したんだ」
これには、かなりびっくりした。社長さんが無料奉仕でカード作りの受け付けをやるなんて、日本では想像も出来ない。「なるほど、これがボランティアというものか」と大いに感心して、いつか日本でやってみようと思っていたのを、世界陸上で実行したわけである。
ロサンゼルスの組織委員会では、ユベロス会長をはじめ、各部門の責任者は、みな有給のプロだった。組織委員のお偉方は名誉職だが、仕事は雇った専門家に責任を持ってやらせる仕組みである。ボランティアは、その下で社会的貢献をするために奉仕していた。
それと同じように、無料奉仕のボランティアは、与えられた仕事は一生懸命にやるにしても、大きな責任を伴う仕事は引き受けられない。責任のある仕事は、報酬をもらっているプロがやるべきだ、とぼくは考えていた。
しかし日本では、これは難しいようである。
今回の世界陸上では、各部門の責任者も、長年にわたって陸上競技の役員をボランティアで務めてきた方々だった。部門によっては、組織委員会と契約した企業から出向している人もいるようだったが、そのへんのけじめは、あいまいだった。
ぼくの場合は、勤務先の新聞社が大会に協力していたので、開幕の2週間ほど前から顔を出すことが出来た。そのために、無料奉仕のボランティアではあるが、ある程度は責任を伴う仕事を任せられた。
だから、やりがいはあったけれど、ボランティア志願の趣旨からは外れている。
短期のボランティアの協力を仰ぐのは、大会を大衆の力で盛り上げるために非常に重要である。しかし責任ある仕事は、専門の知識と経験のある有能な人が、長期にわたって担当すべきだと、ぼくは思う。
世界陸上に本来のボランティアとして協力した方々には、定年を過ぎた年配者か、まだ社会に出てない若い学生が多かった。
それはそれで結構だが、しかし、責任者は、出来れば55歳以下の働き盛りのプロであって欲しい。
ワールドカップ日本開催の準備をはじめるなら、各部門の責任者は、2002年に55歳以下の人、つまり現在40歳代前半の少壮気鋭でなければならない、とぼくは思う。
しかしこれは現実には難しい話である。
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