「私とサッカー」を読んで
偉大な創意と実行力で次々に新しい仕事をした足跡を偲ぶ
神戸の加藤正信さんが、さる2月1日に急逝された。79歳だった。
加藤さんは神戸フットボール・クラブの創設者だが、そのほかにも実にたくさんの仕事を、次々に手掛けられた。
ぼくはニューヨークヘ来る前に、ご拶挨に伺ったさい、その業績を本にまとめるようにお勧めした。それが「私とサッカー」というタイトルで自費出版の本になり、ニューヨークヘお送りいただいた直後に悲報が届いた。いまとなっては、ご本がまとまったのが、せめてもの慰めとなった。
加藤さんの理想と業績は「私とサッカー」の中に書き残されているが、多くのお仕事の中で、サッカーに関しては次の三つが非常に大きな業績だったと思う。
第一は「神戸フットボール・クラブ」の創設である。
「これからの日本のスポーツは、学校体育だけに頼らないで、地域に根ざしたクラブで育てなければならない」というのが、加藤さんの考えだった。
その考えを実行するために、1970年に、神戸フットボール・クラブを「社団法人」として設立した。地域のスポーツクラブは公益法人にして、しっかり基礎の上に置こうという狙いだった。
功績の第二は「神戸中央球技場」の建設である。
神戸市の中心に近い御崎の競輪場の跡地にサッカー・スタジアムを作ろうという運動を加藤さんが先頭に立って推進した。スタジアムは1969年に完成し、専用サッカー場としては日本で初めて、四隅照明のナイター設備をつけた。
「地域のサッカークラブは、将来トップにプロチー厶を持たなければならない。そのためには専用のスタジアムがいる」というのが、その当時からの加藤さんの考えだった。
功績の第三は「年齢別チーム登録制度」の提案である。
1968年にサッカークラブ育成全国協議会が開かれたときに加藤さんが、日本サッカー協会のチーム登録制度を変えようという提案を出した。その当時のチーム登録は中学校、高校、大学というように「学校別」になっていたが、これでは地域のクラブチームは育たない。そこで16歳未満、18歳未満、19歳以上というように「年齢別」に組み替えようという提案だった。これは実に15年後にやっとサッカー協会で実行された。
この三つの仕事は、実は一つの理想で結ばれている。
それは、地域に根ざしたスポーツクラブを育てるということである。
そのためにスタジアムが必要であり、年齢別の登録制度が必要なわけである。
そういう行政的な施策の重要性を認識し、先を見通して布石を打ちながら実現へ精力的に動いたところに注目していただきたい。
ぼくは、30年以上にわたってスポーツ記者として働き、多くのすぐれた方々とお付き合いいただいたが、その中でも加藤正信さんが、もっとも偉大な人だったと思っている。
純粋な情熱を燃やし、未来を見ながら現在に大きな仕事を残した点で、加藤さんほどの方はいない。
神戸FCへの注文!
加藤氏の遺志を生かし、プロ・チームをめざして積極的に!
加藤正信さんが目指したのは、神戸フットボール・クラブを少年チームから大人のチームまで、年齢別のいろいろなチームを持つ総合的なサッカークラブにすることだった。20年近く前から女子チームのことも考えていた。
そして、クラブの中のトップのチームは、日本リーグにはいり、将来はプロにならなければならないと考えていた。
プロの選手たちが、同じクラブの中で子供たちのあこがれの的になり、子供たちの模範となるような組織を考えていた。
そのために、サッカー協会には年齢別の登録制度を提案し、神戸市に働きかけて専用のサッカー場を建設するなど、10年先、20年先を見通した手を打っていた。
こういう布石は、加藤さんのたくましい実行力と神戸一中などの地元の人脈のおかげで、ことごとく成功していたのだが、トップに強いチームを作りプロにしようという目標は、ついに加藤さんの生前には実現しなかった。
「私とサッカー」に収録されている記事を見ると、加藤さんの考えに「時期尚早」と反対する人たちが地元にいたらしい。多分、兵庫あるいは神戸のサッカー協会、ひょっとしたら神戸フットボール・クラブの中にも、加藤さんの先見の明を理解しない保守派がはびこっていたのかもしれない。
1979年に神戸の宮崎市長が御崎の中央球技場を利用して「日本一のサッカーチームを神戸に」と提案したことがある。その7年後の1986年には、「神戸市政百周年の1989年までに神戸にプロサッカーチームを」という、神戸市側の構想が新聞に報道された。
しかし、この構想は新聞に花火が打ち上げられただけで、その後、一向に進展しなかった。神戸市側が持ちかけても、地元のサッカー協会が受けて立とうとしない。それで市の方は「根回しが足りないじゃないか」といったという話がある。
思うに、市長とその周辺に構想を吹き込んだのは、加藤さん自身だったのではないか。ところが、せっかくきっかけを作ったのに、地元のサッカー協会の保守派が、乗ってこなかったのではないか ――これは、ぼくの邪推である。
加藤さんの考えが時期尚早でなかったことは、現在の日本のスポーツ界のプロ化への動きが証明している。加藤さんの構想を、地元が一体になって支持していたら、いまごろは神戸のサッカーが日本の先頭を切っていたのではないかと思う。
しかし、いまからでも遅くはない。
神戸フットボール・クラブは、加藤正信さんの遺志を生かして、強いプロチームを持つために動き出して欲しい。
そのためには、現在の仕事だけを守って行くような消極的な考えは捨てることである。加藤さんの未来への夢と、それを実現するためのたくましい実行力を受け継いで、積極的に行動してもらいたいと思う。
OBサッカー連盟!
高齢化社会を見通した健康と生きがいのための組織作り!
「やらなければならないことが、たくさん残っているのに時間が足りない」
これが、最近の加藤正信さんの口ぐせだった。
ぼくが思うには、加藤さんは何百年長生きしても、仕事をやり終えることはない人だった。
なぜなら、加藤さんの頭の中には次から次へと新しいアイデアが浮かんで来て、それをまた次から次へと実行しようとするので、仕事はふくらむことはあっても、完結することは考えられなかったからである。
だから加藤さんの仕事は、後輩が受け継いで、何世代もかけて実現しなければならないものだと思う。
しかし、これはぜひとも加藤さん自身の手でやって欲しかったと思うことがある。それはOBサッカー連盟の全国組織の設立である。
加藤さんは、十数年前に「西日本OBサッカー連盟」を作って、40歳以上のOBを組織し、年に1度の大会を開いていた。高齢化社会への対策が大きな問題になる前からで、これも先見の明である。
年配のサッカーのOBのクラブはずっと以前からある。関東には「四十雀クラブ」、関西には「鹿鳴クラブ」があって、いずれも40歳以上のOBに入会の資格がある。しかし、これは元来は名門校のOBの親睦のためのクラブで、サッカーが、ごく少数のエリート学生のスポーツだった時代の名残だと、ぼくは思っている。
また、かつて日本のサッカーの一つの中心だった旧制高等学校のサッカー部のOBの昔を懐かしむ大会が、いまも開かれている。
そういうクラブや大会は、それはそれで意義があるとは思うが、サッカーが大衆のものになった現在、高齢化社会を担うための組織でないことは、もちろんである。
加藤正信さんは、名門神戸一中、旧制第六高等学校で全国優勝したサッカー選手で、かつてのエリートの仲間であり、昔の交友関係も大事にしていたが、それでいて「OB連盟」は別の問題として考えていた。そういう視野の広さ、考えの深さが加藤さんのすばらしいところだった。
OB連盟の狙いはいくつもある。
本来の目的は、歳をとってからもサッカーを安全に、健康に楽しめるように、組織することである。
一方で、社会的地位のあるOBもサッカー界に引き留めて、力になってもらうことも必要である。
第一線を退いた超OBが、子供たちやママさんのサッカーの世話をすることも加藤さんは考えていた。
加藤さんが自分の組織を「西日本OBサッカー連盟」として、全国組織にしなかったのは、全国組織は日本サッカー協会が作るべきものだとして遠慮していたからである。
ぼくは、日本サッカー協会が、加藤さんたちを起用して全国組織を作るのがいいと思っていたが、その提案をする前に、加藤さんが亡くなってしまった。
本当に、やれることはすぐやらないと、誰にとっても残されている時間は決して十分ではないのだった。
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