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サッカーマガジン 1986年3月号

ビバ!! サッカー!! ワイド版

’85サッカー大賞はトヨタカップ
技能、敢闘賞は木村和、加藤久選手に

すばらしかったテレビ中継
この1年、トヨタカップにまさるビバがあっただろうか!

 「ジャジャーン! 栄えある1985年のサッカー大賞は、あのプラティニ、あのボルギによるトヨタカップに決定致しましたあ……」
 ことしも独断と偏見による日本サッカー大賞の選考を行うことにしたのだが、今回はかの友人たちの意見を徴することなく、ぼく自身の独断で決めることにした。友人どもは口をとんがらせて不満である。
 「ほかに日本人に良い業績はなかったのか。たとえば日本代表チームは朝鮮民主主義人民共和国を破ってワールドカップ予選の最終ラウンドにまで出たけど……」
 ばかじゃなかろうか。わが権威あるサッカー大賞を、半世紀近くの宿題である打倒韓国を果たせなかったものにやるわけにはいかない。
 「だけどトヨタカップはヨーロッパと南米チームの試合だろ。外国に日本サッカー大賞をやるのか」
 と別の友人が異議をとなえた。
 もとより、この大賞は日本のサッカーが対象であって、外国に与えるつもりはない。受賞者はトヨタカップというエベントそのもので、ユーベントスでもプラティニでもない。
 たとえば何年か前に、この開催困難になっていた世界クラブ選手権試合を日本で開催するアイデアを最初に出して某々広告企業に教えてやった人(誰だか知っているだろうな)とか、それを強引に具体化して持ち込んだ某PR企業の某々氏とか、当時そのテレビ局にいて冷静かつ大胆にこの企画を実現させた某氏とか……そういう人たちすべて含めてトヨタカップという企画そのものに授賞したいという考えである。
 「そんな某々ばかりの得体のしれないものを表彰したくないな」 と友人の1人が正当な意見を述べた。
 よろしい、それでは、どうすればよいか?
 「あのすばらしい試合を日本でやるには、相当のお金がかかったんだろ。やっぱり重要なのはお金だよ。ここはスポンサーのトヨタ自動車を表彰することにしようよ」
 「ぼくは、あの試合のテレビ中継に賞をやりたいな。あれだけの試合を楽しめたのはテレビのおかげだし、日本のテレビ局として出色の中継だったよ」
 「そうだ。スポンサーよりもテレビの中継スタッフの方が苦労したに違いない」
 「あのプラティニばかり写したカメラはけしからんという意見があったけど……」
 「分かっちゃいないね。すばらしいサッカーはすばらしい個性によって実現する。そこをクローズアップしたのがよかったんだ」
 ともあれ、1985年度の日本サッカー大賞はトヨタカップそのものを代表して、これを中継した日本テレビ放送の担当者一同に贈ることに決定いたしまーす……。
 拍手は意外に少ないようだ。
 やっぱり仲間賞めととられたのかしらん。でもこの1年間に、トヨタカップ以上のビバが日本に、いや世界にあったでしょうか?

和司のフリーキック万歳
韓国戦での得点と天皇杯での活躍をあわせて技能賞だ

 「だけど、韓国との試合の和司のフリーキックはすばらしかったよ」
 愛国心にあふれる友人は、まだ日本代表のワールドカップ予選での活躍に未練がある。
 説明するまでもないだろうが、1985年10月26日、前半終了近くの43分にゴール正面約25メートルから守りの壁を巻いてゴール左上隅にたたきこんだあのフリーキックのことだ。
 「年末にテレビの1年間のスポーツ回顧番組でもやっていたけど、何度見てもあれはすばらしい」
 思い出してみれば、あの瞬間、あれは最高のビバだった。国立競技場を埋めつくした大観衆のあの熱狂とあの日の丸。あれもサッカー大賞に値するかもなあ………。
 ちょっと感傷的になったところを別の友人がドライに痛撃した。
 「だけど、あの1点は、韓国にもう2点も取られたあとだったんだ。そのことを忘れたら甘いよ」
 「でも、あの1点で後半の反撃に希望をつなぐことができたんだ」
 スタンドを埋めたファンの、あのときの気持をぼくが代弁した。
 「ともかく木村和司の技術のすばらしさを認めなくちゃ」
 それに木村和司君の場合は、日産の天皇杯優勝の原動力になったことも加味しなくてはいけない。
 天皇杯の準決勝、マツダとの試合で後半が始まったばかりの47分に決めた日産の3点目は、和司の足わざを、あざやかにみせたものだった。元日の決勝戦では13分に先制ゴールを決めている。天皇杯優勝の殊勲選手だったことは疑いない。単に点をとっただけでなく、チームの牽引車としての役を立派に果たしていた。そんなところを考えて、韓国戦でのフリーキックと天皇杯準決勝での3点目がファンを喜ばせた功績を評価したい。
 というわけで
 ジャジャーン!
 木村和司君が1985年度の技能賞に決定いたしました!
 ところで話は変わるけど、この正月に行われた高校選手権で、あの木村和司に勝るとも劣らぬフリーキックを見た。
 ときは1月6日、場所は横浜三ツ沢サッカー場。準々決勝の清水商と五戸の試合である。
 清水商が2−0とリードして前半を終わろうとしていた34分、五戸は手倉森誠のフリーキックで1点を返し、勝負を後半に持ち込んだ。ゴール正面約30メートル。ボールは守りの壁の上を越えて鋭く落ちた。
 「高校生にあれができるんだったら、日本代表選手にできるのは当たり前だ。賞なんてやることはない」などとけちなことは、いわない。少年サッカーのころから活躍していた手倉森君を、ここまで、すくすくと伸ばした地方のサッカー関係者に深く敬意を表したい。

加藤久の負けじ魂
読売クの3冠への貢献と代表チームでの奮闘に敢闘賞を!

 ところで1年前の日本サッカー大賞の選考をご記憶だろうか? 前回の大賞は、日本リーグ2連覇の読売クラブに与えるところだったのだが、いささか事情があって、半分預かりおき、大賞ではなく中賞にしておいた。ここに、預かっておいた半分を返して、改めて1984年度の大賞を読売サッカークラブに授与することにする。
 読売クラブは、前回の選考のあと天皇杯に優勝、やがてやってくるであろうクラブ組織の時代の先駆者として歴史に残る仕事をした。したがって大賞の資格は十分ある。
 前回、大賞の半分を預かりにした理由も、もう時効にしていい。いつまでも過去にこだわり続けるのはスポーツの世界にふさわしくない。
 1985年度に話をもどそう。
 今回の敢闘賞は、読売クラブの加藤久選手に贈りたい。
 加藤久選手は、ワールドカップ予選を戦った日本代表チームの主将として、選手たちの精神的な支柱だった。そして同時に、読売クラブの選手としても、全力を尽くした。
 1985年度のJSLカップの決勝戦のとき、この加藤久の頑張りを象徴するようなできごとがあった。
 試合の後半に加藤久がケガをして足が丸太のようにふくれあがり、医者は「とても無理だ」とプレーをやめさせようとした。ところがグーテンドルフ監督は、医師のいうことを無視して冷酷に「続けろ」と指示した。
 グーテンドルフは外国人のプロの監督だから、目の前のタイトルをとることだけを考えるのは当然だが、加藤久選手にとっては、その後に日本代表の主将としてワールドカップ予選の試合が控えている。試合を続けてケガがひどくなり、その後のワールドカップ予選に日本代表として出られなくなるのが心配である。
 加藤久選手自身も「グーテンドルフは無茶をいう」と思ったという。しかし「よし、やってやる」と試合を続け、読売クラブは優勝して3冠となった。
 見ていたぼくは、グーテンドルフのプロフェッショナリズムにも驚いたし、加藤久の負けじ魂にもびっくりした。日本代表と読売クラブの両方で全力をつくし、しかも、その間に早稲田大学の体育の先生として、授業も担当しているし、後輩の指導もしなくてはならない。こういう過酷な仕事に耐えて、しかもあらゆる場面で全力を尽くすことができるのは、あの負けじ魂があるからに違いないと思った。
 実は、加藤久選手は、読売新聞社の日本スポーツ賞で、日本サッカー協会から1985年度の優秀選手に推薦され、賞状とトロフィーをもらった。
 ビバ!サッカー!の敢闘賞には賞状もトロフィーもないが、誌面から盛大な拍手を贈ることにしたい。
 ところで、大賞、技能賞、敢闘賞とくれば「殊勲賞?」にということになるが、今回は殊勲賞はやめにする。日本のサッカーに何か大きな殊勲があっただろうか。ちょっと思いつかないし、誌面ももうなくなってしまった。


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