オリンピックのメダル、少年サッカーの普及、いいことづくめに見える日本サッカー協会だが、実際は重要な仕事をやり残している、とはいえないだろうか。
答えは「ノー」
1968年から1969年へ――。
日本蹴球 (サッカー) 協会の内部で、三つの問題が年を越した。 第一にはコーチ制度の確立、第二には学生サッカーをどうするかということ、第三にサッカー専用競技場建設である。
この、非常に重要な、しかも緊急を要することがらについて、日本蹴球協会が1968年度に十分な努力を尽くしたかどうか。残念ながら、ぼくの答えは「ノー」だ。
「早くなんとかしろ」ということは、ぼく自身も、あちらこちらでいいもしたし書きもした。サッカーマガジンのハーフタイムのページにも読者の方のご意見がのったし、協会にも熱心なひとびとからの投書が、いくつも寄せられていた。こういうことに、協会の役員の方が敏感に反応して、行動したとは、ぼくにはどうしても思えない。
きっと協会の方は、こういわれるだろう。「じっさいには、いろいろやっているが、なかなかむつかしい問題が多い。そう急に目に見えてはうまくいかない」
「事情を知らないで、つべこべいわないでもらいたい。ひそかにやるべきことはやっている」
だが協会は、なすべき努力をすべて試み、その事情や方針を全国のサッカー関係者に説明し、国民の応援を求めただろうか。過去1年の動きを見て、とてもそうとは思えない。
長沼監督は古河に帰るのか
1968年にうまくいかなかったのなら、1969年には、がんばってもらえばいい。ここではこの三つの問題にからむエピソードを2、3紹介させてもらう。
その一 ―― 日本代表チームの監督であり、日本蹴球協会の技術指導委員長であるケンさんこと長沼健氏は、ただいま古河電工から協会へ出向中の身である。メキシコオリンピックがあり、コーチ制度確立の大仕事があるので、古河が1年間、ケンさんの身柄を協会に貸してくれていたのだ。その期限が、2月15日で切れる。そのあとケンさんは、どうするか ―― である。
ケンさんは、こともなげにいう。
「そりゃ、16日からは、とにかく丸の内 (古河電工本社) の方に出ますよ。そういう約束だったんだから……」
けれどもケンさんがこのまま、ふつうのサラリーマンになってしまうだろうと思っている人はだれもいない「2、3力月で協会に舞い戻るほかはないだろう。いま協会には代りの人材がいないんだから……」という人さえいる。
この問題には、もうひとつ、選手としては第一線を退くという八重樫茂生選手 (古河電工) の将来もからんでくる。ぼくたちの立ち場からいえば、八重樫選手は、サラリーマンとして出世してもらうよりも、サッカー界でうんと働いてもらいたい人である。
協会には、すでに古河電工をやめて専任コーチとして働いている平木隆三コーチがいる。古河電工という会社と、そのサッカー部が育てた長沼、平木、八重樫という3人の人材を、日本の将来のためにどのように生かすか。それは協会の決意と会社の度量にかかっていると思う。それについての動きが、この雑誌発売のころから、1〜2カ月のうちに必ずあるはずだ。
それを読者のみなさまといっしょに、ぼくは注目したいと思う。
学連が協会とケンカした
その二 ―― この原稿を書いている間に、天皇杯の準々決勝で、学生の早大が東洋工業を破ったというニュースがはいった。この1年間で最大の番狂わせだった。
だが、これで「学生サッカーの水準は日本リーグに劣らない」と結論する人はだれもいないだろう。同じ日、三菱重工に大敗した関大の筧監督は、学生と日本リーグの格差を認めたうえで、「学生選手に刺激を与えるために、学生の東西対抗をやったらどうだろう」と語っていた。
実は、この談話を聞いて、ほくはびっくりした。なぜかというと、学生の東西対抗をやろうという企画は、関東の学連の学生たちの間から1968年夏すぎに持ちあがっていたのだが“おとな”の協会役員の手で、みごとに叩きつぶされた、ときいていたからである。
過ぎたことだから、くだくだしい経過は省略するが、要するに関東学連の学生幹事諸君が、学生サッカーの沈滞を、なんとかしなければならないという純粋な動機で、学生の東西対抗を企画し、関西学連に持ちかけたが、協会から待ったをかけられ、ちょっとしたいざこざの末、つぶされたのである。
つぶされた理由は @これは関東、関西の協会と日本協会でやるべきことなのに学生たちが勝手に動いた。A協会の知らない間に、学連名で文部大臣杯の申請が出ていた ―― というようなことである。
ぼくにいわせれば、こんな理由は手続き上の手違いに過ぎない。
協会の役員は、世故にたけた“おとな”であり、学生諸君は教育途上の青年なのだから、青年に手続き上の間違いがあれば、手を貸して直してやればいいが、青年たちの意欲は買って伸ばしてやらなくちゃいけない。
それを頭ごなしにやっつけるのは、おとなげない。
協会の方には「そんな頭ごなしにやっつけた」つもりはないかも知れないが、関東協会理事会が、文書で始末書の提出を求めたという事実が、すでに教育にたずさわるもののやり方ではないと思う。(スポーツは広い意味ですべて教育の一環だと思う)
どうなった「サッカー場建設委員会」
その三 ―― サッカー専用競技場の建設については、東京の赤羽の近くに候補地があって運動が行なわれていることをぼくは知っているが、サッカー関係者のうち、何人がこのことを知っているだろうか。協会理事会のほんのひとにぎりの人しか知らないのではないか。ぼくはこういう運動は、サッカー人の総力をあげて国民運動としてやるべきであり、かりに建設が実現しなくても、サッカー人の力を結集したという事実そのものに意義があるという形をとるべきだと思う。
日本蹴球協会は、年度はじめに「サッカー場建設委員会」を作ることを公約したが、その後その準備の小委員会が一度開かれたのを耳にしただけで、委員会が動き出したことは聞いたことも読んだこともない。このことを指摘するだけで、はじめに「答えはノーだ」と書いたことの説明は十分だと思う。
今回の記事は、サッカー協会への攻撃に終始した感じになった。改めて協会の功績をたたえる記事を書く機会をぜひ持ちたいが、メキシコの銅メダルのおかげで、功績をたたえる方は他の方がたくさん書いておられるから、ここではご勘弁を願うことにする。しかし、悪口を書くことが目的ではないので、ぼくの聞き違いや、考え違いがあれば次の号で喜んで訂正したい。 |