日本を苦しい立場に追い込んだムルデカ大会参加問題は、これからの日本サッカーに貴重な教訓を残している。
7月21日の本郷秀英館
7月21日、南米遠征の日本代表チームが出発する日に、合宿所の本郷秀英館に行ったら、長沼監督と岡野コーチがばたばたしていた。
6畳の部屋いっぱいに運道具屋からとどいたばかりの新しいユニホームを並べ、製薬会社から寄贈された薬品や、南米に持っていくペナント、おみやげなどを配分している。選手たちに手分けして持っていかせるのである。
「おーい、6番のユニホームがないぞ。あれ、9番がふたつある」
「おおかた6番をさかさにつけちゃったんだろ。すぐに運道具屋に電話しよう」
てんやわんやのところへ、八幡製鉄の渡辺選手が入ってくる。
「ぼく、どれ持っていくんですか。うへえー、こんなに持たされるの。テープレコーダーまで」
「たくさん頼むのは信頼されているからよ。頼りにしとるぜ」
と長沼監督。
「こんな雑用まで監督、コーチがやるの? せめて出発するまでは、誰かマネジャーを頼めないの?」
「ほんとはマネジャーを頼むべきだろうな。なんでも、ふたりでやっちゃう習慣をつけたのが悪いんだ」
こんな会話をしているとき、同じ秀英館の別館では、日本蹴球協会のおえら方が、ヒタイを集めて協議していた。毎年招待されているムルデカ・サッカー大会に日本がことしは参加をことわった。それで主催者のマレーシアがつむじをまげ、竹腰理事長をはじめ協会はその善後策に頭を悩ませていたのである。
ぼく個人の意見をいえば、こんどのムルデカ参加のトラブルは、まったく日本サッカー協会の黒星だったと思う。
そして、このことは、遠征出発の当日まで長沼監督、岡野コーチがマネジャーのやる仕事を引き受けて、てんてこ舞いしていることと無関係ではないのである。
日本とムルデカ大会の因縁
順序として、日本とムルデカ大会の因縁を簡単に説明しよう。
@ムルデカ大会は、マレーシアの独立を記念してラーマン首相がはじめたもの。東南アジアの国を旅費、滞在費マレーシア持ちで招待し、ことしが10回目である。
A日本は1957年の第2回大会から毎年招待されて参加している。遠い日本を特に欠かさず招いたのは、日本のサッカーを盛んにしようというラーマン首相の好意によるといわれる。
B日本は過去8回参加のうち日本代表の1軍が4回、2軍が4回出場、この3年は続けて2軍を派遣している。
C成績は1軍の出た63年の第6回で2位になったのが最高で、あとは振るわない。
―― このいきさつを見て分かる通り、ムルデカ大会は日本のサッカーが、さんざんお世話になった大会だといっていい。
とくに初め、日本が海外遠征になれなかったころは、日本が国際舞台に出る貴重な機会と経験を与えてくれたものだった。
体育協会の会議で、ホッケー協会の役員が
「サッカーさんは丸がかえで招待してもらえるんですか。うらやましいですなあ」
と嘆息したことがあるのを、おぼえている。
トラブルはこうして起った!
さて、ことしのムルデカ参加がトラブルを起した経過を箇条書きにすると
@過去3年続けて日本が2軍を送ったためマレーシアの協会、在留邦人などから不満が起き、また日本大使館や日本の関係者の中からも優勝をねらって1軍を送るべきだという意見が出てきた。(協会機関誌64号、下村監督報告書参照)
A昨年8月のムルデカ大会と12月のアジア大会のとき、ラーマン首相が野津会長らに次回から1軍を送るよう要望、マレーシア協会は2軍なら招待しないと表明した。
Bことしの2月、日本協会が発表した事業計画案によれば、日本代表の1軍は3月に南米に遠征、8月にムルデカ大会に参加することになっていた。(このころ日本からマレーシア協会に送った手紙に、「ムルデカ大会には1軍を送る予定」と付記している)
C3月の南米遠征が交渉不調でご破算になり、その後7月にペルーに遠征する案が出てきた。
D5月28日の協会評議員会で決まった事業計画では、ムルデカ参加は姿を消し、7〜8月に1軍は南米、2軍は台湾に遠征することに変わっていた。(これは新聞発表されなかった。協会機関誌66、67、69号参照)
Eマレーシアは日本が参加するものとして準備し、参加国に日本をふくめて再三新聞発表をし、7月14日には日本をふくめて組合せを決めた。
おくれた不参加通知
Fマレーシアは2回にわたって参加確認をさいそくしてきたが、日本が不参加の通知を出したのは7月17日だった。
G7月20日駐マレーシアの甲斐大使から外務省を通じ、両国の友好をそこなわないよう日本の再考を求める電報がきた。
H7月21日の常務理事会で日本蹴球協会は、南米から小城、杉山、釜本を呼び返して台湾遠征組に加えてムルデカ大会に送る案を決め、甲斐大使にあっせんを依頼した。
I7月28日にマレーシアは「日本がベスト・メンバーで参加するのでなければ受け入れられない」と、日本の不参加を認めることにした。
―― 結局は、マレーシアから日本が拒否された形に終わったのだが、ことの善悪は読者の判断にお任せしよう。
ただ、南米遠征は体育協会から補助金が出ている関係で中止できない事情があったのではないかと推測されること、ことしの最大の目標は10月のメキシコ・オリンピック予選にしぼっているので、選手強化のために南米遠征のほうが有効だと協会が判断した(ただし、この点には反対意見もあった)ことを、協会弁護の材料として、付け加えて置こう。
新しい時代の協会運営組織を
さて、最初のシーンにもどろう。
南米遠征出発の当日に、長沼、岡野両首脳が、マネジャーの仕事をばたばたやっていたことと、今回のトラブルは無関係ではないのだ。
なにしろ、日本サッカー協会は、有能な人材はひとりで何役もやらなければならないことになっている。
たとえば、岡野俊一郎氏は、協会の理事であり、事務員であり、渉外係であり、報道担当であり、テレビ解説者であり、機関誌の執筆者であり、通訳であり、指導講習会やサッカー教室の講師であり、日本代表のコーチであり、ご紹介したようにマネジャーでもある。しかも本業は、漱石の「三四郎」にも出てくるお菓子の“しにせ”上野駅前岡埜栄泉の専務取締役なのである。
ぼくは、日本のサッカーが、こんなに忙しくなったときに、協会が昔のままのやり方をしていたのではダメだと思う。運営組織を作り直して、有能なコーチはプロ・コーチとして専念させ、事務局はこれも有能な有給セクレタリーに権限を与えて、てきぱきと運営しないと、いけないと思う。
ムルデカ大会参加がこじれたのは、日本が不参加を決定した手続きと理由がいささかアイマイだったこと、マレーシアへ礼をつくして通知をださなければいけないのにその事務が非常に遅れ、また不適当だったこと―― が直接の原因だった。それというのも、日本のサッカーが忙しすぎるからだ、というのが真相である。
それにしても――。
アジアのサッカーとの交流は、もっと大切にする必要がある。ヨーロッパや南米でサッカーが盛んなのは、となり近所の国との試合が非常に人気があるからだ。
これは、こんどのもめごとの残した大きな教訓だった。
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