(サッカーマガジン1974年4月号 牛木記者のフリーキック
)
■ 野球とサッカーの違い
プロ野球のキャンプめぐりにいって、南九州を駈け足でまわった。一昨年の国民体育大会会場だった鹿児島に行ったら、ロッテ・オリオンズが練習している鴨池球場の隣の陸上競技場で日立のサッカー・チームがスプリング・キャンプを張っていて、野村六彦君や川上信夫君が元気いっぱいで練習をしていた。さんさんと降り注ぐ明るい太陽のもと、もくもくと噴煙をふきあげる桜島を背景に、野球とサッカーが並んで練習している。なかなかに風情があってよろしい。
こちらは野球の取材が仕事だったから、日立のサッカーは、ちょっとのぞかせてもらうだけにして、高橋英辰監督にも、あいさつをしないで帰ってきた。本心をいえば、サッカーが日本でもっと盛んになって、新聞記者がサッカーのキャンプめぐりをするような時代に、早くなって欲しいものである。
ロッテ・オリオンズの練習は、プロ野球12球団のキャンプの中でも、よく走ることで定評がある。午前10時から午後4時過ぎまで、途中、昼弁当を食べるだけでぶっ続けに練習するのがプロ野球のキャンプ。その最初に全選手がエイホ、エイホと6000bを走っていた。
しかし、日立のサッカーの練習ぶりと並べて見てみると、スポーツの性質が違うのだから当然ではあるが、日立の走りっぷりの方がずっと生き生きとしている。オリオンズの今年のモットーは「生きのいい野球」だそうだが、「生きのいい練習」は日立の方だった。
それというのも、野球は個人競技的な性格が強く、しかも動きの少ないスポーツだからである。打撃練習をするには、バッティング・ケージという鳥籠みたいな中に入ってバッティング投手の投げてくれるタマを打つのだが、せいぜい、一つの球場で同時に2人しか練習できない。しかも、打者の相手をするバッティング投手はふつう補助要員で、試合に出るレギュラーの投手とは、まったく別である。そんなふうだから、練習時間は長くても、一人一人が実質的に練習をしている時間は、たいしたことはない。何とか効率のいい練習計画をたてるのが、監督、コーチの腕の見せどころだけれども、どうしても「待ち」が多くなる。
その点、サッカーは、2人に1個の割合でボールを出しておけば、30人でも40人でも、同じように、同じ量の練習が出来る。しかも、ボールを扱いながら走り、技術練習にインターバル・トレーニングを織り込み、実に能率がいい。
ここで野球とサッカーの優劣を論じるつもりはまったくないが、サッカーのチームが野球の練習形式を真似ても、ほとんど得るところはないだろうと思う。エイホ、エイホと走る野球式ランニングをやっているサッカー・チームがあったら、考え直してみた方がいい。
■ 山口久太氏に感謝する
朝鮮民主主義人民共和国から、ピョンヤン (平壌) 4・25チームが来日した。「4・25」のメンバーは、事実上のナショナル・チームといっていい。そのチームが、日本蹴球協会の主催で日本代表チームと試合をするのだから、サッカーに関する日朝スポーツ交流は完全に軌道に乗ったといっていい。
ここに来るまでには、日本体育協会の山口久太理事 (東海大学体育学部長) が非常に大きな努力を払った。このことはサッカー関係者にあまり知られていないようなので、ここに紹介しておきたい。
1972年の2月、札幌冬季オリンピック大会のときに、朝鮮民主主義人民共和国の代表選手団の首脳部と山口久太氏が会った。そのさい、その年の高校選手権大会に優勝した習志野高校サッカー・チームの訪朝が持ち出された。山口氏は、習志野高の元校長だったからこの話が出たのである。
全習志野高サッカー・チームはその年の5月に、日本からの初のスポーツ選手団として朝鮮民主主義人民共和国を訪問した。当時日本蹴球協会の一部に反対があったのは事実である。しかし、これが現在ではすでに解決した問題であることは、その後の日朝サッカー交流が順調に発展したことによって示されている。
山口久太氏は、全習志野高チームの団長として訪朝し、帰国後、日朝スポーツ交流促進連盟を結成した。1972年の11月には、この促進連盟の代表団がピョンヤンを訪問し、その中には日本蹴球協会の藤田静夫常務理事が加わり、山口氏が朝鮮体育指導委員会の幹部に藤田氏を紹介して、日朝サッカー交流のきずなは、このときにしっかりと結ばれたのである。
1973年1月に “赤い稲妻” と呼ばれたピョンヤン高等軽工業学校チームが来日し、日本蹴球協会主催で試合をしたのは、御存知の通りである。これは山口氏が道を開いた全習志野高チーム
訪朝の見返りだった。
昨年の9月、朝鮮民主主義人民共和国のマンスデ (万寿台) 芸術団が来日したとき、山口氏は広島まで行って芸術団のキム・ギョアン副団長と会談した。その結果、キム副団長は東京へ戻ってから日本蹴球協会の首脳部と会い、今回の日朝交流の話をまとめた。
このように、日朝サッカー交流が実現するまでには、終始、山口氏の尽力があった。ところが、日本蹴球協会の首脳部の中には、全習志野高の訪朝が、協会関係者でない山口氏の発意から出て実ったことを、未だに快く思わない人がいるらしい。
今回の日朝交歓サッカーのプログラムに載っている “あいさつ” の中には、山口久太氏に対する謝意はふくまれていない。それどころか、歓迎パーティーなどで山口久太氏があいさつするのに、ことごとに反対した人がいるそうだ。
男のスポーツであるサッカーをやった人間なら、すでに解決した事柄は水に流し、からっとした気持ちで感謝の言葉を述べるくらいの度量が欲しいものである。
■ 日本蹴球協会の解散
日本のサッカーの総元締である「日本蹴球協会」が、2月24日に東京渋谷の岸記念体育館で解散パーティーをした。解散といっても、協会がなくなるわけではなく、新しく財団法人として発足するために、従来の任意団体を解散したのである。
サッカー協会を公益法人に改組するのは、協会の人事刷新と組織改革がからんで、この5年来の宿題だった。それが最後のツメに来て、人事問題のからみで難航したのは、前にこのページで書いた。
結局、この人事問題は、藤田静夫常務理事を中心とする5人の小委員会が原案をまとめて、一応の妥協に達したということである。サッカー界が内部抗争の醜を天下にさらすのはみっともないから、とにかく内部で事が納まったのは結構なことである。
しかし、伝え聞くところによると、新しい財団法人になっても、新しい23人の理事の顔ぶれは以前と大差ないようである。会長と3人の副会長が理事になり、地方選出の9人が入ると残りのワクは10人。技術委員長、審判委員長、大学担当、高体連担当、日本リーグ、渉外担当の責任者6人を加えると残りのワクは4人。結局、協会の実力者の小野卓爾氏、柔軟な感覚で調整役を勤めてきた藤田静夫氏、理事長の竹腰重丸氏、前事務局長の沖朗氏の4人が入った。従来の常務理事の中で、地方の代表として入った人もいるから、旧日本蹴球協会常務理事で、新財団法人の理事にならなかったのは、早大OBと慶大OBの長老2人ということになったらしい。「らしい」というのは最終的な決定が、この原稿を書いている時点では、まだ発表されていないからである。
つまるところ人事の刷新、組織の改革という点からみると、たいして変りばえはしないように思われる。微妙な段階は過ぎたようだから、ありていにいうと、人事の焦点は、野津会長が後進に道を譲るかどうかになっていたが、実は改革派のねらいは、協会の実力者、小野卓爾氏の追い落としにあったのではないか、とぼくは推察する。実際のところ、いまの日本蹴球協会は、小野氏ひとりが動かしているような所があり、協会の功は小野氏のものであり、協会の罪も小野氏の責任であるといっていい。
その点でも、協会の状態は、たいして変りばえしないようである。もう少し率直にいうと、実は以前よりかえって悪くなっている。小野氏の健康状態が悪いと、にっちもさっちもいかなくなり、1月のジュベントス来日のときは、記者会見に協会役員は1人も現われず、2月のピョンヤン4・25チーム来日のときは、協会役員の出迎えが、飛行場に間に合わないという有様であった。
協会の形態を公益法人にしたところで、このような運営の実態が改善されなければ、たいして効はないのではないか、とぼくはひそかに心配している。
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