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(サッカーマガジン1973年5月号 牛木記者のフリーキック


小学生のサッカー

 近所に小学生の草野球チームがあって、日曜ごとに広っぱで練習をしていた。“××ホークス” という立派な名前があって、みなちゃんと帽子やユニホームを揃えている。サラリーマンのおじさんが指導者で、練習も試合も日曜だけだが、午前10時からはじめ、弁当持参で午後4時すぎまで世話をしている。こういう熱心な町の指導者が、いたるところにいるのは、日本の軟式野球の根強さである。
 この “××ホークス” が、同じ地区にあったライバルの “××ジャガーズ” とともに発展的に解消することになった。というのは、この地区の小学校を中心に、学校区内のスポーツ・クラブができることになって、二つの少年野球チームは、そのスポーツ・クラブの組織に吸収されたのである。
 熱心なサラリーマンのおじさんは、そのままスポーツ・クラブの指導者になった。練習はやはり日曜日だけだが、場所は広っぱではなくて、小学校の校庭を貸してもらえることになった。その代わり、朝から晩までずーっと練習を続けるわけにはいかない。午前中だけである。
 この小学校区のスポーツ・クラブは、軟式野球を吸収したほかに、新たにサッカーをはじめた。ほかに卓球などもあるが、男の子の花形は軟式野球とサッカーだ。
 ある日曜日の午前、サッカーと軟式野球が同じ校庭を半分ずつ使って練習をしているのをみた。どちらも人数は40人くらい。
 サッカーは、2人に1個の割合でボールが出ている。サッカーの指導者も、なかなかたいしたもので、ボールを利用したウォーミング・アップを、子供たちの興味をつなぎながらやらせ、そのあと6人一組のグループに分けて、ゲーム的な練習に移っていった。
 野球の方は、前からの実績があるから手なれたものだが、競技の性質上、多くの子供たちに十分な練習をさせるのは、なかなかむずかしい。1時間以上もボール拾いなどをやって待ったあげく、打たせてもらえるのは、ものの5分くらいである。教える方は、子供を相手にフリーバッティングの投手を勤めてやらなければならないのだから、たいへんである。
 こうやって、並べて見ると、小学生のスポーツとして、サッカーの良さは明かだった。これから、こういうような小学校区ごとのスポーツ・クラブが各地にできていくに違いない。この機会をサッカーがうまく利用しなければウソである。


代表チームの問題点

 5月のワールドカップ・ソウル予選を目ざす日本代表チームの候補選手たちが、西日本縦断の強化試合をした。ぼくの見たのは、横浜、大宮、東京西が丘の最後の3試合である。
 プロレスなみの強行日程で「正直いって、身体の状態はよくないです」と小城主将が弱音をはくほど、みなバテバテだったし、オーストラリアに遠征した日立の選手も入っていなかった。
「本格的なチーム作りは、4月に」と長沼監督もいっていたから、この強化試合の結果だけを見て、日本代表チームの評価をするわけにはいかないだろうが、この西日本縦断の前には、コーチ陣が「5点くらいのハンデがあるくらいのつもりでやらせる」といっていたのに、2引分けをふくんで苦戦の連続、1点差、2点差の勝負で「5点のハンデ」どころの話ではない。
 横浜の古河電工との試合では、釜本選手のプレーぶりが、どうも良くなかった。手をあげてあっちだ、こっちだと指図しているが、ご本人はあまり走らない。後方まで下がってきてボールを受けとっても、それをリターンしたあとのダッシュがきかない。ボールを返してもらった若手選手は、窮地に立って結局相手にとられる、といったミスが多かった。
 スイーパーを勤めている小城が攻め上がっていると様子はちょっと違っている。釜本からリターンされてきたボールを、小城がすぐに前方のあいたスペースに出した場面があった。釜本が走り込んでいるべき場所だったが、釜本は走らなかった。ボールがラインを割ってしまって、釜本は「ごめん、ごめん」と小城にあやまった。小城と釜本の間だから、釜本の方があやまるが、これが若手だったら、若手の方が小さくなったかもしれない。
 こういう場面をみて、代表チームの問題点は、いぜんとして中盤だろうと思った。昨年のムルデカ大会のときのように、小城が中盤を担当して釜本を前線で使いこなせば、得点は多くなるだろう。しかし、それではバックラインに不安がある。ムルデカでも、それで韓国にやられているから、やはり小城はスイーパーとして使わざるをえない。
 ぼくの見た3試合では、森が負傷で出場していなかった。森が常時完調で出場し、チームの中心になることができれば、前線の釜本、中盤の森、バックの小城と筋金が通る。そうなったら、若手の永井、藤口、荒井、足利などは、予想以上の働きをするようになる可能性がある。頼むぜ、森チン。


火中の栗を拾う勇気

 中華人民共和国とのサッカー交流を話し合うために、日本蹴球協会の野津謙会長、藤田静夫常務理事、沖朗事務局長の3人が北京へ出かけた。一方で岡野俊一郎理事が、FIFA (国際サッカー連盟) のサー・スタンレー・ラウス会長の胸中をたたくため、ロンドンに飛んだ。
 サッカーの中国問題を解決するのは、そう簡単ではない。北京のサッカー協会 ―― つまり中華人民共和国の足球委員会は、1958年にFIFAを脱退している。これはFIFAが、台湾の協会の加盟を認めたためで、現在は台湾のサッカー協会が “リパブリック・オブ・チャイナ” の名前でFIFAに加盟している。
 一方、FIFAには、非加盟国とサッカーの交流をしてはいけない、という規定がある。FIFA理事会が特別に許可をして試合を認めることもあるが、これはその国がやがて正式な加盟国になる見込みがあるような場合である。中国の場合も、ラウス会長は「中国が加盟申請を出しさえすれば、それが総会で審議される前でも交流は認める」といっている。しかし、中国にしてみれば、台湾の協会が入っている団体に加盟申請を出すのは、“二つの中国” を自ら認めることになるからできない相談である。
 ラウス会長は、この2月にナイジェリアのラゴスとイギリスのロンドンで、3回にわたって中国のスポーツ関係者と会談した。そのときラウス会長は、現在 “リパブリック・オブ・チャイナ” (中華民国) の名前で加盟している台湾を “タイワン” の名称にするのはどうか、と中国側に打診したらしい。しかし中国にとっては、台湾は自国の中の一省であるから、それが独立に国際的な団体に加盟するのは承知できない。会談はもの分れに終わったらしく、ラウス会長は5月のFIFA理事会で「非加盟国との交流禁止」を再確認する必要があるかもしれない、といっている。
 こういう複雑微妙な状況のときに、日本の首脳部が、わざわざ北京に出かけたのは、火中の栗を拾うような愚かなことだ、という人がいた。
  ことなかれ主義をよしとするなら、事態を静観しているのが賢いかもしれないが、ぼくは日本蹴球協会が、あえて火中の栗を拾おうとする勇気をみせたのは、たいしたものだと思う。信念を持って行動するのなら、やけどぐらいを恐れてはいけない。

 

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