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(サッカーマガジン1973年2月号 牛木記者のフリーキック


“赤い稲妻” がやって来る

 近くて遠い国といわれている朝鮮民主義人民共和国から、高校サッカー・チームがやって来る。昨年の高校選手権で優勝した千葉県習志野高校のメンバーが、朝鮮訪問を計画したとき、さまざまな形の妨害があったことを考えると感無量である。
 来日チームのピョンヤン (平壌) 高等軽工業学校チームは、国内での激しい予選を勝ち抜いて選ばれたものらしい。というのは、ぼくが11月にピョンヤンに行ったとき、朝鮮体育指導委員会のソン・ギルチョン (孫吉川) 対外事業局長が、
「日本へ行きたがっているチームが多いのでたいへんですよ。いま予選をやっていますが、みんな、けんめいになってやるので、激しい試合が多くて蹴球協会の書記長さんは、頭が痛いんですよ」
 と冗談をいっていたからだ。
 そのとき聞いた話では、予選は12月10日に終わる、ということだった。
 朝鮮の高校サッカーのレベルが高いことは、もうだいぶ知れわたっている。
 1960年にピョンヤンで社会主義国ユース・サッカー大会が開かれたとき、朝鮮のAチームは、ソ連、ハンガリー、ポーランドなど東ヨーロッパの強豪を押えて優勝、Bチームがソ連についで3位に食い込んでいる。
 昨年5月に全習志野高サッカー・チームが訪問したときは、前年の同国高校1位〜3位のピョンヤン高等建設学校、ウォンサン (元山) チョウ・グンシル高等学校、ピョンヤン高等運輸学校のチームと対戦して、それぞれ6−0、5−0、2−0で完敗した。習志野の西堂監督が「こりゃ、すごいよ。まるで “赤い稲妻” だ」と驚嘆したのは、このときである。
 その “赤い稲妻” を日本のグラウンドで見ることが出来るのだから、これは楽しみである。日本のサッカー・マンには、きっと見てためになる点が多いと思う。
“赤い稲妻” の特徴は、なんといっても、その走力だが、スピードだけにまどわされてはいけない。走りながら中距離パスが正確につながり、しかも相手のもっとも、いやなところを的確に見抜いてえぐってくる。
 そのテクニックと戦術眼が走力と一体になっているところを学んで欲しい。
 もちろん、これは、ぼくが習志野といっしょに行って見て来たときの印象でいっているのだが、今回のピョンヤン高等軽工業学校チームも、基本的には、そう違わないと思う。なぜなら、共通の基本の上にチームの個性を育てるのが、この国のサッカーのやり方のように思われるからである。


再びバレーボール問題について

 先月号でバレーボールのアマチュア規則違反について書いた。これは、その続きである。
 この前に書いたように、ぼくは男子バレーボール・チームのしたことが、たいへんな社会的 “悪事” であったとは思わない。はたせるかな、日本体育協会は、バレーボール協会に「注意を与える」程度で結末をつけてしまった。その程度のことなら、なぜ体協のアマチュア委員会の委員長 (鈴木良徳氏) が一人であんなにわめきたて、新聞が書きたてざるを得ないような状況を作り出したのか。まるで結果的には委員長個人の “売名” のために、バレーボールを血祭りにあげたような印象ではないか。
 驚いたことに、体協のアマチュア委員会が招集されたのは、新聞でバレーボール問題が、さんざん騒ぎ立てられたあとのことであって、それまでは委員長が2、3の委員と相談しただけで、勝手に “事情聴取” をして、それが逐一、新聞に出たんだそうである。そういう点では、はじめから罪人扱いにされていた松平康隆監督は、犠牲者のようなもので同情するほかはない。
 ぼくは、松平さんがバレーボールを盛んにしたいと思うあまりに実行した一連のやり方には、必ずしも賛成しない。そういう意味のことは、問題が起きる前に、すでに本誌のこのページに書いたことがある。
 しかし、その熱意と実行力は、少しばかりサッカーの協会も見習って欲しいものである。
「松平さんは、バレーボールをマスコミに扱ってもらうために焦りすぎたということはあるかも知れませんが、その責任はサッカーにもありますよ」
と、ぼくの友人が冗談めかしていった。
「一時のサッカー・ブームは、マスコミが作り出したものだとバレーボール関係者はいっていましたからね。サッカーは担当の新聞記者に恵まれている。実力以上に書いてもらっている、というのが松平さんたちの考えで、それに追いつき、追いこそうとして無理をしたんですよ」
 もし、友人のいうことが本当なら、本誌でおなじみの大谷四郎氏や鈴木武士氏やぼく自身などサッカー担当の新聞記者は、いささか気のひける思いをしなければならない。
 しかし、友人の考えはサッカー担当記者に対する買いかぶりであって、サッカーが日本でしだいに盛んになってきているのは、サッカー自体のもつ魅力のせいに違いない、とぼくは確信している。


二つの投書を考える

「サッカー・マガジン」でいちばん楽しみにしているのは、うしろの方の「ハーフタイム」のページである。若い人たちの投書は、生き生きとしていて、高校選手権大会のテーマ・ソングではないが、 “大地のにおいをかいで” いる思いがする。実際にグラウンドで汗を流し、ボールを追いながら青春を生きている ―― その中に悩みもあれば、喜びもある。その一端をハーフタイムにのぞくことができる。以前にクラマーさんから「一通の投書の背後には、1000人の同じ意見がある」という話をきいたことがあるが、そういう意味でも、このページはないがしろに読みすてることは出来ない。
 12月号に「進学とクラブの間で」という群馬県・坂田雄輝君の投書と「草サッカー体験談」という東京都・土肥和夫君の投書が並んで掲載されていた。
 
坂田君のものは、大学受験のためにサッカー部の部員が、つぎつぎに退部してゆく寂しさを訴えており、土肥君のものは、学校の部には入らないで草サッカーをやっている楽しさを描いている。まるで正反対の内容のように見えるけれども、実は一つの青春の両面であるのかも知れない。
 3年生になったとたんに、受験のためにサッカーをやめるとすれば、2年間しか高校でサッカーをしないことになる。実際には、1年生の前半はたいして部の役にはたたなかっただろうから、1年半のサッカー部生活である。もしサッカー部生活が学校教育の一端であるのなら、そんな中途半端な教育でいいのか、とぼくは疑問に思う。読者の中に高校の先生がおられたら、そこのところを教えていただきたい。
 草サッカーの方は “学校教育” の一部でないことは、明らかなようだ。学校教育の一部としてサッカーを “やらされる” ことをきらって仲間同士でチームを作っているわけである。こういう人たちを野放しにせずに、グラウンドを提供し、求められれば適切な指導を与える機会を用意することは、社会の義務であるとぼくは思う。ところが実際には、こういう高校生の草サッカー・チームは、かりに協会に登録しても、出場する「競技大会がない」ので「草サッカー連盟を作るのが夢」だという。
 学校のサッカー部に生徒を引き止める力がなく、草サッカーには試合の場が与えられていないのだとすれば、日本の若者はどこでサッカーをすればいいのだろうか。これは、みんなで考えて解決していかなければならない、もっとも重要な問題ではないだろうか。

 

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