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(サッカーマガジン1973年10月号 牛木記者のフリーキック


新しい会長を迎えよう

 日本蹴球協会の法人化が、最後のツメの段階にきて難航している。4、5年前からの懸案が、延期に延期を重ねて、それでも昨年の秋ごろには「財団法人日本サッカー協会」が出来上がっているはずだったのだが、さらに1年たったいまになっても、まだもたもたしている。新しい法人の規則 (寄附行為) などは、すでに出来上がって、あとは手続きだけになっているが、会長、副会長、専務理事、理事の顔ぶれを決めることになると、意見が対立しているらしい。
「君たち若手がやりやすい体制を作ってやるんだと、両方でいってるんだけどね……」とある若手の理事がいっていた。若手といっても、長沼健、岡野俊一郎といった理事は、すでに40歳を過ぎた。現在の協会の中心である常務理事クラスは、いまの若手よりもっと若いころから、ずっと協会を握り続けている。本当に若手にやらせるつもりなら、60歳定年制をしいて、いっせいにやめればいいと思う。地方の組織から選ばれて出てきている人ならともかく、そうでない人は、いつ辞めたって苦情の出どころはないはずである。しかし、どの人たちも、「おれが、おれが」という老いの執着で辞めたくない一心にこり固まっている。
 協会が法人化されたからといって、急に日本のサッカー界が変わるわけではない。任意団体から財団法人になるのは、単に手続き上のことに過ぎない。ただ、これをきっかけに、日本のサッカーに新しいスタートを切らせよう、というのが、みんなの願いである。つまり気分一新ということなので、役員の顔ぶれも一新した方がよいと、ぼくは思っている。

 実際問題としては、全部の役員を、いっせいに変えるのは、むつかしいようだから、会長だけでも、新しい人を迎えてはどうだろうか。
 いまのところ、新会長の有力候補は、三菱化成社長の篠島秀雄副会長である。極東大会に日本代表として出場した東大の名選手だった人で、財界第一の切れ者といわれている。お忙しい立ち場の人だけれどもサッカー界あげて会長に推せば、引き受けてもらえるのではないだろうか。
 現在の野津謙会長の考え方に反対しているわけではない。ぼく個人の感想をいえば「サッカー・マガジン」9月号のインタビューで野津会長が述べているビジョンは、実に的確ですばらしい。いわゆる “若手” に野津会長のような視野の広さと、確固とした哲学がほしい、とぼくは思っている。
 だから野津さんには名誉会長になっていただいて、新会長の手で、そのビジョンを実行させるという体制を、法人のスタートのときに作るべきである。
 そうでなければ、“ほとけ作って魂入れず” ということになってしまう。


日本リーグのレベル

 日本リーグが大乱戦である。日立、三菱、新日鉄、藤和、ヤンマーが首位戦線で入り乱れ、古河も上位をおびやかす力があり、新顔のトヨタも健闘している。
「せり合っているけど内容がない。ドングリの背くらべなんだろ」
 という人がいた。果たしてそうだろうか。
 日本リーグは、創設以来、ことしが9年目だが、サッカー・ブームと騒がれたはじめの3〜4年と比較したら、現在の方がはるかに内容は充実している。
 あの当時、豊田織機、ヤンマー、名相銀はリーグのお荷物といわれたくらい、上位チームと力の差があった。ヤンマーなどは、日本リーグ創設の1965年に、東洋工業との試合で11−0という大敗を記録している。この試合で、東洋の桑田隆幸選手は、一人で5点をあげている。当時のヤンマーが、いかに弱かったかが分かる。
  名相銀は、東海地域から2チーム入れるのはアンバランスだったのに無理押しして加わった形だったが、1年目の前期は、旧来のWMフォーメーションで試合にのぞみ、相手がみな4−2−4システムだったために、「無我夢中で、なにをやっているのか分からなかった」という。これは当時の名相銀関係者から聞いた話である。
 当時にくらべると10チームに増えたことしの1部リーグの方が、はるかに実力が平均している。2チーム増やしたのは水増しだとか、時期尚早だとかいわれたが、チームの層は厚くなっている。
 三菱やヤンマーや藤和が、新しいスタイルのサッカーに取り組んで成果をあげているのもたいしたものだと思う。三菱は西ドイツのバイスバイラー氏の指導を取り入れ、ヤンマーと藤和は、南米風の個人技を生かしたサッカーを志している。まがりなりにも、新しい冒険をリーグの中でこなすことができるのは、個々の選手の基礎技術と戦術的理解力のレベルが上がってきているからである。
「それにしても ―― 」とある人がいった。
「この間、三菱対ヤンマーの試合をみたが、相変わらず、杉山と釜本だったぜ。あの二人をしのぐ選手が現われないかぎり、レベルが上がったなんて、いえないのじゃないのかい?」
 お説の通り、杉山・釜本をしのぐスターは現われていない。リーグの平均値は上がったが、最高点は下がっている。これは、日本代表チームが伸びていないせいだともいえるし、日本の若い選手たちのやっているサッカーが、天才を育てないサッカーなんじゃないか、という疑問にも通じてくる。


大学とクラブの二重登録

 本誌の先月号と今月号に連載されている座談会「日本サッカーの未来に望む」の中で、ぼくが水泳の田口信教選手の例をあげて、大学とクラブの二重登録について述べたら、岡野俊一郎氏が「個人競技だからそれはできるけれど、チーム登録とかいろんな問題になると、現実にはサッカーの場合、非常にむつかしいとは思うんですよ」と答えたくだりがある (9月号82ぺージ)。二重登録というのは、なかなか厄介な問題で、できれば避けた方がいいのだが、外国のサッカーにも例がないわけではないので、補足して説明しておきたい。
 1969年にイギリスからオックスフォードとケンブリッジの両大学連合チームが来日したとき、連合チームのラルフ・コーチに直接インタビューして確認したことだが、あのとき来日した両大学の選手たちは、ふだんの練習や試合を、それぞれの大学のサッカー部でやっているわけではない。大部分の選手は、それぞれ大学外の居住地の近くのサッカークラブに属していて、公式のリーグには、クラブの方から出場している。
「むかしは、オックスフォード大学とケンブリッジ大学のチームが、FAカップに出場したこともあるが、現在では、選手たちが、ほとんど他のクラブに属しているので、大学チームとして選手権に出るのは、不可能になっている」とラルフ・コーチは説明してくれた。
「しかし、11月の第1水曜日には、オックスフォード対ケンブリッジの対抗試合が、伝統的な行事として、有名なウェンブレー競技場で行なわれる。こういう試合のために、大学チームを編成するわけです」
 つまり、現在のオックスフォードやケンブリッジの大学チームは、単独チームというよりは、選抜チームといった方がいい。いろいろなクラブに属している選手たちの中で、その大学の学生である選手を選んで編成した選抜チームである。
 水泳の田口信教君の場合は、広島の尾道高を出たあと、勉強の方では広島修道大学に進んだが、水泳はフジタ・ドルフィン・クラブでやることにした。だから日本選手権などには、フジタ・ドルフィン・クラブの所属選手として出場する。一方、広島修道大の学生として学生選手権にも出場できるように、修道大水泳部の選手としても登録している二重登録である。しかし、実際には大学の水泳部員といっしょに常時練習しているわけではない。
 サッカーは、チーム競技だから田口君のような形の二重登録を認めることは、むつかしいかも知れない。しかし「大学では勉強をする。スポーツは学外のクラブでやる」という形は、サッカーでも、これからどんどん出てくるのではないだろうか。そうなった時に、大学のサッカーが生き残ろうと思ったら、ケンブリッジやオックスフォードと同じ形を選ぶほかはないのではないか。ともあれ、日本の大学サッカーは、思い切った発想の転換をしてみる必要がある。

 

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