(サッカーマガジン1973年1月号 牛木記者のフリーキック
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朝鮮と中国への旅
11月に、朝鮮民主主義人民共和国と中華人民共和国へ3週間の旅をした。こんどは日朝スポーツ交流促進連盟代表団の訪朝に、スポーツ記者として同行したのだが、代表団には、日本蹴球協会の藤田静夫常務理事が加わっていて、朝鮮でも、中国でも、サッカーについての話し合いをした。話し合いの内容はいずれ時期をみて明かにされると思うが、ここではぼくが同行記者として感じたことを報告しておこう。
代表団は、ピョンヤン (平壌) に着いた翌日の11月11日に、朝鮮体育指導委員会を訪問して、オー・ヒョンジュ
(呉鉉柱) 委員長にあいさつをした。そのとき、藤田常務理事が、1月に朝鮮の高校サッカー・チームを「日本蹴球協会の主催」で日本に招待することを述べ、オー委員長と固い握手をした。
思い出してみれば、感慨無量というところである。さる5月に、全習志野高サッカー・チームが、日本からはじめてのスポーツ・チームとして朝鮮を訪問したときは、一部の新聞に日本蹴球協会が反対していて、習志野チームは、帰国後、処罰されるだろう、というような記事が出た。
この習志野の訪朝のときにも、ぼくはついていったのだが、当時、朝鮮側の人びとは「いろいろな反対と戦って来られたことに敬意を表します」といっていた。そこでぼくは「一部に反対があったのは事実だが、日本蹴球協会が、みんな日朝交流に反対しているように思われては困る。日本のサッカー・マンの大多数は、日朝の交流に賛成している」と念を押しておいた。
1月の朝鮮高校チームの招待は、日本蹴球協会の主催で行なわれるのだから、日朝のサッカー交流に、なにも問題のないことが、だれにも分かってもらえると思う。蹴球協会がこれまでのいきさつにこだわらず、正しい道に踏み切ってくれたことに、謝意と敬意を表したい。
藤田常務理事は、ピョンヤンでは、朝鮮体育指導委員会のソン・ギルチョン (孫吉川) 対外事業局長らと今後の交流について会談し、帰りに立寄った中国の北京では、中華全国体育総会の首脳に
“日本サッカー界の元老” として会って、日中間のサッカーの関係を、どのようにして正常化すればよいかを話しあった。
どちらの会談でも、先方は藤田氏のためにちゃんと席を設け、時間をとり、一流の顔ぶれをそろえて応対してくれた。代表団の中には、他のスポーツの役員もいたが、多くは観光に行く途中の車の中とか、あるいは事務関係者が部屋に訪ねてきての会談だった。サッカーだけは、本格的な話し合いだったので、ぼくとしては「やっぱり、サッカーを除いては、交流もへったくれもないよ」と鼻が高かったわけである。
■ バレーボールのアマ違反
ミュンヘン・オリンピックで金メダルをとった男子バレーボール・チームのアマチュア規則違反が問題になっている。それで1968年のメキシコ・オリンピックで、日本のサッカーが銅メダルをとったときの話を思いだした。
メキシコから帰る飛行機の中で、長沼監督と岡野コーチは、選手たちに「テレビへ出演を頼まれたり、週刊誌から取材の申込みがあったときは、必ず協会に相談するように
―― 」と厳重に注意したそうだ。一時的な人気に浮わついて、あちこち引っぱりまわされていると、いきなり足をすくわれることがある。そんなことにならないように、仲間同士でいましめ合ったのである。バレーボールの事件が問題になったいまとなってみれば、この慎重すぎるサッカーの配慮も、必要だったことが分かる。
とはいえ、ぼくはバレーボールの悪口をいうつもりはない。新聞に出ていた以上に、くわしい事情を知っているわけではないが、新聞で見たかぎりでは、バレーボールの選手たちが、そんなに大それた悪事をしたようにはとても思えない。金メダルをとって有名になったところを雑誌ジャーナリズムに利用されただけのことで、選手の方は、むしろ被害者のように思われる。
問題の発端になったのは、選手たちの手形とサインが少年雑誌に掲載されたことらしいが、なぜ大問題になったのか、ぼくにはさっぱり分からない。「金メダルをとった選手たちの手はこんなに大きいんですよ」と雑誌の編集者が、読者に知らせたかっただけではないか。これを見た少年たちは「へえ、すごいなあ」と感心するだけのことではないか。中には、これがきっかけで、バレーボールに興味を持つようになる子もいるかも知れない。それならそれで結構なことではないか。
手形にサインして売ったのであれば、また別の問題だが、そうではないらしい。選手たちは名声を利用して金もうけをたくらんだわけではない。雑誌社に「名声を利用された」かも知れないが、それも広告宣伝に使われたわけではない。目くじらをたてるほどのことはないように思う。
宴会で芸者と騒いでいる写真を女性週刊誌に掲載されたケースの方は、ちょっとみっともない話だったが、これはスポーツマンであろうがなかろうが、関係のないことである。御本人たちは、世間のもの笑いのタネになって、恥をかいたが、そのうえ体育協会が処罰を加える筋のものではない。
今度の問題でいやーな気持ちがするのは日本体育協会のアマチュア委員長が威猛高になって「処罰するぞ、処罰するぞ」と検察官気取りになっているような印象を与えていることである。メキシコのときのサッカーの場合のように、あらかじめ、おたがいに戒めあうようなことが、体育協会にはできないのだろうか。
■ 日本蹴球協会の法人化
日本のサッカーの総元締である日本蹴球協会を財団法人にしよう ―― と協会の幹部が努力しているが、なかなかうまくいかない。11月の予定だったのに、とうとう年を越すことになりそうだ。
「おれたちは、ボールけってりゃいいんだもんな。関係ないよな」なんていわないで、聞いていただきたい。協会を作っているのは、ボールをけっている君たちのチームであって、つまりは自分たちの家を建て直すかどうか、ということなんだから
――。
ぼく自身も、法律的なむずかしいことは、よく分からないのだが、いままでの日本蹴球協会は “任意団体” といって、要するに好きな者同士が集まって、勝手にグループを作ったようなものだったらしい。こういう団体だと、何かあったときの責任は、すべて会長個人が負うことになるらしい。ということは、会長がよほど信用のおける大金持ちででもなければ、銀行は安心してお金を貸そうとはしないし、政府も補助金を渡して、スポーツ振興の仕事をまかせるわけにはいき兼ねる、ということになる。
そこで、任意団体の日本蹴球協会を、公益法人である “財団法人日本蹴球協会” に衣替えすることにした。財団法人にするには、まず基本財産を作らなければならない。監督官庁になる文部省の指導によれば、これが1000万円必要だというので、日本リーグの1部チームから各30万円、2部チームから各20万円、というように寄付を集めて基金を作った。ここまでは、まず順調だった。
次に新しい財団法人日本蹴球協会の規約 (寄付行為という) を決め、これまでの任意団体の協会を解散するため、11月13日に東京で評議員会を開いた。難問が持ち上がったのは、このときである。
財団法人になると協会運営の権限は、ほとんど理事会が握ることになる。理事会の人数は会長、副会長をふくめて23人以内ということに、これも文部省の指導で決まっているのだそうだ。
この23人の理事の中に、地方の代表は何人はいるのか、全部、東京と関西の一部の役員で占められて、各地でサッカーの普及にこつこつと努力している人たちの意向はとり入れられないのじゃないか。こういう疑問が地方の人たちの間から出て、規約の審議は、いっこうに前に進まなくなったのだそうである。
シロート考えながら、ぼくはこう思う。各地の登録チーム数によって評議員の数を決め、理事の過半数 (12人以上)
は、必ず評議員の中から選ぶようにしたらどうか。ほかのスポーツ団体では、そうしているではないか。そういう点があいまいだから、地方の人たちは疑問を感じるのではないか。
評議員会は12月2日に再度招集されたが結論は出ず、1月に解決を持ち越したそうだ。読者の中に、こういう問題の専門家がおられたら、協会に知恵を貸してやって、いただきたい。
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