(サッカーマガジン1972年10月号 牛木記者のフリーキック
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上海少年足球隊
上海のジュニア・サッカー・チームがやって来て、日本で友好試合をした。中華人民共和国からサッカー・チームが来日したのは、はじめてのことだった。
上海から中国船で横浜港に直接入った。これも異例のことだそうである。いままで、スポーツ・チームは香港経由で遠まわりして来ている。田中首相の訪中で国交が正常化すれば、直接の往来が当たり前になるだろうが、それより、ひと足お先に、サッカーが直接渡航の栄をになったのは、うれしかった。
上海チームは、横浜で第1戦をし、仙台、京都をまわって、また横浜で最終戦をした。横浜の第1戦には、日本蹴球協会の竹腰理事長、沖事務局長、岡野俊一郎氏なども来て、スタンドで観戦していた。横浜市の旗と並んで、例の三本足のカラスをあしらったマーク入りの地元蹴球協会の旗があがっていた。一見、すべては正常で、ふつうの試合と変りはなかった。
第2戦の仙台の試合は、多少、正常でなかった。相手をしたのは、仙台の高校選抜チームで “仙台ジュニア”
と銘打っていたが、地元のサッカー関係者は「選抜という言葉は使わないで下さい」といったという。ぼくは直接聞いたたわけではないので、無視したが
“選抜” と書かれると都合の悪いことでもあったのだろうか。
もう一つ、ヘンだったのは、プログラムに出場選手の所属している高校の名前が書いてないことだった。役員に聞いても口をにごして教えてくれない。しかし、山本、小川だけでは読者に対して不親切だから、ぼくは一人一人きいてまわって、新聞にのせたメンバーには、みんな所属を書き加えた。
思うに仙台の先生方は、何かこの試合を、隠れてこそこそやらなければならないような悪いこととカン違いしていたのではないだろうか。
横浜の最終戦でも、ちょっと変なことがあった。例の三本足のカラスの旗が、今度はなくなっていたし、審判員は胸に何やら白い布をつけていた。よく見たら、協会の審判員である証拠のマークを隠しているのだった。仙台の人たちが、所属を隠せば高校生でなくなると思ったように、審判胸章を隠せば協会の審判員でなくなると信じているらしい。
なぜ、こんなコソコソした正常でないことが行なわれたかといえば、中国はFIFA (国際サッカー連盟) に復帰していないので、その中国のチームと試合をするのは、国際的には認められていないからである。ジュニアの友好試合のレベルで、そう格式ばったことをいう必要はないのだが、日本蹴球協会は、表向きは関係しなかった。各地の関係者には、協力してやるように秘かに指示を出していた。協会としては、せい一杯の努力だった。
中国がFIFAに復帰するように、日本が積極的に努カしてもらいたいと思う。
■ サッカー試合と新聞社
来年から日本リーグの1部が10チームになる。試合数は1シーズン90試合になり、これまでよりも34試合の増である。
「そこで、このさい、なにかよいアイデアはありませんかね」
と、日本リーグ評議会議長の山岡浩二郎氏 (ヤンマー) が、記者会見の席でいった。試合数が増えるのだから、地方へ持って出る試合数を、もっと増やしてもいいんじゃないか、という考えが、山岡議長の頭の中にあるのではないかと推察した。
「北海道でまだ試合をしたことがありませんね。札幌でやらせてやってはどうですか」
と記者の一人が質問した。
「検討しましたが、今季は見送りました」
リーグの役員の一人が答えた。お役人の国会答弁風である。
「このさい、サッカーの試合に対する新聞社やテレビ局の後援を認めてはどうですか。札幌のような地方でやる場合、地元の新聞やテレビに応援してもらわなくては、うまくいきっこありませんよ」
と、これはぼくの発言である。
いまのところ日本蹴球協会は、サッカーの試合を報道機関が後援するのを、極度にきらっている。
「新聞社やテレビは営利団体だ。サッカーを営利団体の宣伝に利用されるのは困る」と協会の実力者がいっているらしい。
最近、ある地方的な、ほんのささやかな親善試合を、ぼくの勤めている新聞社で後援してくれないか、といってきた人があった。新聞社側にとっては、別に宣伝に役立つような種類のものではなかったけれども、少しでもサッカーのPRの役に立てばと思って「地元の協会から依頼があれば、社の方に話してみましょう」と答えておいた。数日したら「協会の方でダメだといってます」といってきた。“実力者”
に一言のもとに、はねつけられたという。
バレーボール協会は、サッカーとは逆に、報道機関の宣伝力を徹底的に利用しようとする。どの大会にも、それぞれ新聞杜の後援を求め、海外遠征のときにさえ「特派員をつけてもらえないか」といってきたりする。ぼくたちからみても、少し行き過ぎだと思うくらいだが、これが最近のバレーボール・ブームの一つの原因になっているには違いない。
いろいろ理由はあるだろうが、サッカーはもう少し報道機関を利用するくらいの気持ちになるべきじゃないだろうか。何百万、何千万の人に知ってもらうには、報道機関に頼るしかないはずである。「日本リーグの試合全部を、特定の社に独占させるなんてのはダメですがね。一つ一つの試合は、ケース・バイ・ケースで地元の報道機関に協力してもらっても、いいんじゃないですか」
とぼくがいったら、日本リーグの人たちは「そう思いますけど」と、あいまいな顔をしてみせた。
■ 杉山隆一君ありがとう
ソウルから来た知人に聞いた話だが、韓国では、7月にマレーシアで開かれたムルデカ大会の試合を、テレビで放映したそうだ。クアラルンプールの競技場の照明は暗いからカラーではなく自黒だと思うし、同時中継ではなくビデオを空輸して翌日見せたのだろうが、それにしても記録だけが新聞にのった日本とは大きな違いである。国民のサッカーに対する身の入れかたに差がある。韓国が優勝し、日本が敗退した原因の一つはこんなところにもあるようだ。
「テレビで見てれば、監督がいいわけをしたって通用しないからね」
と、その知人はいう。
「日本チームの監督は、なんといっていいわけをしたか知らないけど、日韓戦は明らかに順当な韓国の勝利だったよ。韓国の方が実力も気力も上だ。日本はなぜ杉山を連れていかなかったのかね。杉山がいなくては五分五分の試含は出来ないとテレビを見てそう思ったよ」
「杉山はナショナル・チームから引退したんだ」
とぼくが説明した。
「日本ではテレビをやらなかったから、杉山が必要だったかどうかわからないけど、ぼくも、杉山にムルデカ大会までがんばるべきだという意見だったんだ。彼はユース大会のころからクアラルンプールに何度もいっていて第二のホーム・グラウンドのようなものだからね。ムルデカの優勝カップを花道にしてやりたかったな」
こんな話をして数日後に日本リーグの東西対抗を見た。杉山は東軍のリーダー格である。珍しく中盤のポジションに入り、ゲーム・メーカーを勤めた。ちょっと見たところ太り気味で、ディフェンスのときに要領よく手を抜くこともあったから、すぐそのまま国際試合に使える体調ではなかったかも知れないが、中盤から出すパスが実にうまかった。出すべきときには、すばやく、受け手のタイミングを生かしたパスを出さなければならない。そんなところが実に鮮かだった。円熟し切った感じだった。それでいて、ここというときに見せるダッシュも、衰えていない。第1戦の翌日、読売サッカー・クラブのバルコム・コーチに会ったら「ゆうべの試合では、イエロー・チームの11番がいい選手だった」という。杉山のことである。
杉山が退いてしまった以上、若手にもっとがんばってもらわなくちゃならないが、杉山の得がたい才能と、これまでの努力を思うと実に残念である。
「日本蹴球協会は、杉山に引退試合をしてやったのかね」と、ソウルの友人がいった。「せめて銀のスプーン・セットくらい贈ってやらなきゃ、おかしいよ」。
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