(サッカーマガジン1971年10月号 牛木記者のフリーキック
)
■ サントスはなぜこなかったか
日本蹴球協会50周年記念事業と麗々しく銘打って招待するはずだったブラジルのFCサントス来日が突然、中止になった。
あわてて韓国遠征の帰途をつかまえたポルトガルのセッツバルで穴埋めすることができたのは、不幸中のさいわいだったが、残念ながらセッツバルにはペレがいない。
サントス招待が、記念事業にふさわしいのは、今世紀最大のスポーツ選手、ペレが日本にくるはずだったからである。セッツバルも強豪チームではあるけれど、49周年にやる国際試合や、51周年にやる国際試合と、さして変わりばえがするとも思えない。
サントスの来日中止を協会が発表したとき、ぼくは、その場に居あわせなかったのだが、あとで新聞で読んだら「ブラジル体育協会が遠征を許可しなかったので」中止になった、と書いてある。まるで体協がサッカーの遠征に横やりを入れたような書き方である。発表をきいた記者
(サッカー担当ではない) にきいたら「協会の人の口ぶりは、そういう印象だったですねえ」という。
“ブラジル体育協会” とは、CBDつまりConfederacao Brasileira
de Desportos の訳に違いない。これは、“ブラジルスポーツ連盟” の意味だから、ブラジル体協と訳しても、おかしくはない。
しかし、CBDは日本の体協と違って「ブラジル・サッカー協会」そのものなのである。たしかに陸上競技なども、CBDの中にはいっているが、実質的に90%はサッカー協会である。CBD会長のアベランジェという人は、国際サッカー連盟
(FIFA) の会長のいすをねらっているといわれる。御承知のように、ブラジルのワールドカップの選手たちは胸にCBDのマークをつけている。
というわけで、サントスがこられなかったのは、体協とサッカーとの紛争によるものではなく、ブラジルのサッカー協会とサントス・クラブとの紛争のとばっちりに違いない。
過去14年の間、ブラジルの協会は、ペレがナショナル・チームにいるおかげで、ずいぶん助けられた。一方、サントスのほうは、国際試合のたびに、ペレを代表チームに取られるので、かなり経済的にも損害を受けてきた。
ブラジルがワールドカップに3回優勝した機会に、ペレを代表チームから引退させ、今後はサントスでうんとかせぎたい
―― というのがサントス側の考えだったのではないか。
一方、協会は来年開催する “ミニ・ワールドカップ” を控えて、ペレを代表チームに残しておきたかった。だから、サントスが、代表チームを引退したペレを連れて海外へ稼ぎに出るのは、釈然としなかったのではないか
―― と、ぼくは推測している。
不思議に思うのは、日本蹴球協会が50周年のような大事な行事として招待するのに、日本の協会がブラジルの協会に、早くから、きちんと筋を通してなかったことである。サントス招待はある仲介者を通じて交渉しており、ブラジルの協会に話が通じたのは、かなりあとになってからだったとのことである。
イタリアのサッカー協会は、近く75周年を迎えるが、このときにはブラジル・チームを招待することになっており、これは間違いなく話が決まっているそうである。
日本のサッカー外交は、またまた黒星を重ねた結果になった。
■ 周恩来とサッカー
6月ごろ中国にいった卓球協会の役員から聞いた話である。
日本の卓球協会の役員が、北京で周恩来総理に招かれて歓談した。その席に、中国の体育の最高責任者もいたが、周総理が、突然思い出したように、その人に話しかけた。
「昨日、私の見にいった中国とアルバニアのサッカー試合では、アルバニア・チームのマナーが非常によかった。それにくらべると、わが中国のプレーヤーの態度は、友好第一の精神が十分でなかった」
体育の責任者は、大いに恐縮していたそうである。
ただそれだけの話だが、これをきいて、ぼくは非常に安心した。
なによりも、1958年にFIFA (国際サッカー連盟) を脱退した中国のサッカーが、その後、13年を経て、立派に続いているのを知ってうれしかった。
1961年に中国へ行ったことがあるが、当時「中国で盛んなスポーツはなにか」と質問すると、決まって「卓球、バスケットボール、陸上競技などです」という答えが返ってきて、なかなか「サッカーです」という返事がもらえなかったものである。
実際には、至るところの広場にサッカー・ゴールがあり、町では子供たちがボールをけっていたし、国際試合には10万の観衆が集まることを聞いていたから、サッカーが盛んなことは疑いなかった。
それなのに、責任ある立場の人たちが「サッカー」の話をあまりしないので、新中国では「サッカーは資本主義的なスポーツ」と考えられているのではないかと、不安を感じたものである。
だが、文化革命の嵐を経て、中国のサッカーは、ちゃんと存在している。存在しているどころか、国際試合を総理大臣が見に行き、選手のマナーにも、気をくばっている。
世界のサッカーをみるとき、商業主義の弊害が、忍び込んでいないとはいえない。しかし、そうなりがちであるのも、サッカーが大衆のスポーツであるからであって、サッカーというスポーツそのものが悪いわけではない。美しい花には、悪い虫がつきやすいものである。
サッカーの良さを守るのに必要なのは、フェアプレー、つまり友好第一の精神である。周総理のアドバイスは、悪い虫をあらかじめ防ぐようにとの親心ではないだろうか。
■ 中学校と少年団
宮城県塩釜のサッカー少年団が、夏休みを利用して、東京へ遠征してきた。サッカー・スポーツ少年団大会に参加したかったのだが、ことしは宮城県の出る番ではないので、単独で遠征してきたのである。
試合相手とグラウンドのお世話をあっせんするために、ちょっとだけ、ぼくが口をきいたので、指導者の小幡忠義さんが、電話をかけてこられて
「塩釜中が、大宮の全国中学校大会に出場してますから、このほうも応援してくださいよ」
といって帰られた。
注目していたら、塩釜中は準決勝に進出して、藤枝中と引分け、抽選で退いた。実力的に全国2位に当たる成績である。
これが、広島や静岡や埼玉だったら驚きはしない。サッカーには伝統のある土地であり、良い指導者や、熱心な先生方も多い。強いチームが出て来て当然だろう。
しかし、宮城県は、それらの地方ほどサッカーが盛んだとはいえない。そこから塩釜中が出てきたのは、小幡さんたちが非常な努力で少年サッカーのタネをまいたからである。
小幡さんたちは、午前6時から、近くの小学校の校庭を借りてサッカースクールを開いた。早朝でなければグラウンドがあいていないからである。コーチがいないから、仙台の東北学院大学にいっている地元出身のサッカー選手に毎朝きてもらった。小幡さんたちは、しばしば家業を犠牲にしたし、身ゼニも切った。このような人に知られない努カによって、塩釜のサッカーは芽をふいたのである。
日本蹴球協会主催の全国サッカー少年団大会は、ことしから13歳以上の部を切捨てしまった。中学校大会は “単一の中学校チーム”
に限られているから、町の少年チームの出る幕はなくなった。将来小学生のサッカーも、そうなるのではないかと心配である。
大切なのは、“学校” ではなくて、サッカーをやっている少年たちであり、“学校教師” の地位ではなく、熱意あふれる指導者である。そこのところを見落とさないでほしいと思う。
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