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監督の座にきびしさを!
(サッカーマガジン1970年10月号)


ラムゼー監督はおしまいか

「なんだ、お前は。まだメキシコの話をしているのか」
 と叱られそうで気がひける。メキシコのワールドカップの話は、書いて、書いて、書きまくり、しゃべって、しゃべって、しゃべりまくった気がするのだが、それでもまだ、いい足りない。とにかく、いい勉強になりました。
 ウベ・ゼーラーの大活躍で、大逆転劇が演ぜられた準々決勝の西ドイツ対イングランドの試合の会場は、メキシコ市から高速バスで約4時間のレオン市スタジアムだった。組織委員会は、メキシコ市から取材に往復する記者のために貸切りバスを2台仕立てた。
 前回の王者イングランドが敗退したので、帰りのバスの中では、ベテランぞろいの各国記者も、いささか昂奮している。西ドイツの勝因、イングランドの敗因を、おたがいにブロークンな英語で声高に話し合う。
「ところで、ラムゼーはもうおしまいかね」
「イエース。おれはそう思うね」
 あまりにも、きびしい意見が、突然飛び出したので、ぼくはガクゼンとした。


冷酷非情な世界

 アルフ・ラムゼーは、1962年チリのワールドカップが終わってから、イングランドの監督に指名された。地元で開かれる1966年のワールドカップに優勝するための、思い切った登用だった。
「66年には、イングランドが世界一になる」
 ラムゼーは、自信たっぷりに断言し、実際その通りになった。エリザベス女王は金色に輝くジュール・リメ・カップを自国のキャプテンに手渡すことができた。ラムゼーは、“サー” の称号を許された。
 それ以前のイングランドのワールドカップの成績を見れば、サー・アルフの功績が、いかに偉大であるかは明白である。イングランドは、1950年大会では、国際サッカーの世界では、無名のアメリカに敗れ、それ以後1962年のチリ大会まで準々決勝以上に進出したことはない。
 ラムゼーの前のウインターボトム監督は、それでも、ジャーリズムの非難を浴び続けながら、17年間も監督の座に居すわり続けていた。
 これにくらべればラムゼーはたいしたものである。みごとにイングランドを優勝させたではないか。メキシコでは、たしかに失敗したが、試合内容を検討すれば、決して悪くはない。優勝したブラジルに1−0で敗れたけれども、後半は互角以上の戦いだった。準々決勝では、西ドイツがレオン市に居すわりだったのに対し、イングランドはグァダラハラ市から移動しなければ、ならなかった。それにGKバンクスが、突然腹痛を起こしたのも不運だった。バンクスがいれば、2−0のリードを守って勝ったに違いない。
 試合が終わったとたんに「ラムゼーは終りだ」とはひどい。批評家は、なんてきびしいことをいうんだ。ぼくは、こんな冷酷非情な人種の仲間なんだろうか……。


人情味が濃すぎる日本

 考えてみると、ぼくをはじめ日本のサッカー記者は、どうも人情味が濃すぎるようである。自分では、いい加減ドライなつもりだけれども、もっともっとドライにならなくちゃいけない。
  昨年10月のワールドカップ・ソウル予選で日本が敗退したとき、ぼくたちは、どんなことを書いただろうか。韓国はステート・アマで、オーストラリアは、セミプロなんだから、日本が負けたのは仕方がない、という論調ではなかったか。
 スポーツの監督、コーチの住んでいるのは “勝負の世界” である。監督、コーチの能力は、勝負によって評価される。どんなに人柄のいいコーチでも、試合に負ければ非難されるのが当然である。
 メキシコのワールドカップのあと、チェコのマルコ監督とブルガリアのコーチ陣が退陣させられた。ベスト8に出られなかったのは大きな失敗だというわけである。
 イタリアは、決勝戦に進出する大活躍だったが、7月下旬にイタリア協会技術指導委員長のマンデリーニが辞任した。外電の伝えるところでは、決勝戦にリベラを起用することに反対し、それがブラジルに完敗する原因になった責任をとったのだということである。
 日本のスポーツ界は、このようなきびしさに欠けているように思う。サッカーでもそうである。
 クラーマーさんが来る前まで、戦後の日本のサッカーは、まったくひどいものだった。アジア大会でも目ぼしい成績はないし、ワールドカップやオリンピックの予選で韓国に負け続けた。
 韓国と引き分け、抽選で出場権を得たメルボリン・オリンピックでも、1回戦で地元とはいえ、もっとも弱いといわれたオーストラリアに敗れた。
「外国の選手は、子どものときからボールをけっているのだから」
  当時の関係者のいいわけは、決まっていた。しかし、だからといって、少年たちにボールをけらせるために、この人たちが格別の努力をしたようには到底思われない。
  過去の古傷をあばくのは、ぼくとしても、うれしくない。しかし、当時の関係者は現在も協会の首脳部だから、まだ “公人” として批判を受ける資格は十分にある。
  また、そのころ、日本では弱小スポーツだった “サッカー” そのものをなんとか保護して育てあげたいと思うあまり、また “大先輩に対する遠慮” という私情もあって、ぼくたちがジャーナリストの批判の筆がにぶっていたことを認めないわけにはいかない。


試練のミュンヘン五輪予選

 いま、日本代表チームは危機にある。このことはムルデカ大会から帰ったあと岡野監督もいっていたし、ベンフィカとの最終戦を見たクラーマーさんも、いっていた。その原因は若手選手に国際試合の経験が足りないことである。クラーマーさんは「少なくとも、あと一年間は国際試合の経験を積まなければならない。ミュンヘン・オリンピックの予選に間に合うかどうか」と心配していた。
 岡野監督、八重樫コーチが、このチームをかかえて、ミュンヘンを目ざさなければならない苦労は、よく分かる。
 しかし、だからといって、岡野監督、八重樫コーチは、すべての責任が、自分たちにあることを忘れては困る。
 ムルデカは、すでに失敗した。アジア大会も苦しい戦いを覚悟しなければならないだろう。
 良い仕事をするには、準備がいる。経験もいる。
 だから岡野 ― 八重樫ラインの最初の仕事、ムルデカ大会の責任を追及することは、正しくない。
 しかし、多分来年秋になると思われるミュンヘン・オリンピック予選は、いいのがれのできない目標だと思う。
 どのような選手を選ぶか、どのようなトレーニング計画をたてるかは、すべて岡野 ― 八重樫に任せるべきである。
 ふたりが最善をつくし得る体制を作ってやった上で、よい結果が出れば、その功績は第一にふたりのものであり、失敗すれば、その責任は、いさぎよくとってもらわなければならない。

 

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