フェアプレーの精神を生かそう
(サッカーマガジン1969年6月号)
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クーベルタン賞とは
ちょうど、この雑誌が発売されるころに、メキシコ・オリンピックの日本代表チーム監督の長沼健氏は、フランスのパリヘ行っている。ご承知のように、メキシコ大会の日本チームに、クーベルタン賞フェアプレー・トロフィーが授与されることになった。その授与式が5月13日に、パリのユネスコ会館で行なわれるからである。
このクーベルタン賞のことが、日本ではまだあまり知られていないので、今回はこの賞のもっている “隠れた重要な意味”
を紹介し、“フェアプレー” とは、なにか、ということを考えてみたい。
ちょっと大げさなことをいわせてもらうと、このクーベルタン賞は、ユネスコのルネ・マユー事務総長から、長沼監督に手渡されることになっているが、実は、ほかならぬ、ぼくが日本チームに授与するようなものなのだ。
というのは、このクーベルタン賞を出している国際委員会では、ユネスコ (国連教育科学文化機関) とともに、AIPSが大きな役割を果たしている。AIPSとは国際スポーツ記者協会のかしら文字で、ヨーロッパを中心に世界各国のスポーツ記者の団体で作られており、日本からは東京運動記者クラブが加盟している。ぼくは、東京運動記者クラブのメンバーであるから、つまり、AIPSのメンバーであり、したがってクーベルタン賞を授与する国際委員会の側であり……というしだいで、いとこの、はとこの、またその親類みたいなものだが、まあ、そういうわけなのだ。
クーベルタン賞国際委員会の事務局長は、世界的に有名なフランスのスポーツ新聞 “レキップ” のジャック・フェラン記者である。フェラン記者は、AIPSのサッカー部門の議長であり、昨年、FIFA
(国際サッカー連盟) の報道委員長に選ばれている。サッカー記者の仲間であるこの人が、フェアプレーの精神を広めるために、大いに働いているわけだ。
■ 正しく美しいスポーツ
協会の新聞発表によれば、サッカーへの授賞は、今回の日本代表オリンピック・チームがはじめて、ということだったが、実はこれは間違いで、別掲の受賞者一覧にあるように、1965年にサッカー関係者が表彰されている。
クーベルタン賞の受賞者 |
1964年 |
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エウゲニオ・モンティ |
(イタリア・ボブスレー) |
1965年 |
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ウイリー・ホワイト |
(アメリカ・陸上競技) |
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ウエストハム・ユナイテッド |
(イングランド・サッカー) |
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ミュンヘン ’60 |
(西ドイツ・サッカー) |
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イストバン・ツォルト |
(ハンガリー・サッカー審判) |
1966年 |
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ステファン・ホルバト |
(ユーゴ・レスリング) |
1967年 |
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イストバン・クルヤ |
(ハンガリー・庭球) |
1968年 |
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日本オリンピック・チーム |
(日本・サッカー) |
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これはヨーロッパ・カップウイナーズ・カップの決勝戦で対戦したイングランドの“ウエストハム・ユナイテッド”と、西ドイツの“ミュンヘン
’60” の両チーム、それにこの試合の審判をしたハンガリーの国際審判員を、いっしょに表彰したものだ。
この試合は、非常に白熱した激しいものだったけれども、選手たちはルールを守り、真剣なプレーをした。審判も試合を十分にコントロールした。観客も熱狂はしたが節度を守った
―― ということでいわば、この試合全体が、フェアプレーの見本として、とり上げられたのだ。
ここで注意しておきたいのは、この両チームは、いわゆるプロチームだということだ。クーベルタンの名前は、近代オリンピックの創設者として有名で、日本の一部ではアマチュアリズムの守護者のように考えている人もいるようだけれども、このクーベルタン賞フェアプレー・トロフィーは、決してアマチュアだけを対象としたものではない。
現にプロチームに与えられているだけでなく、もともとこのフェアプレー・トロフィーは、偏狭で時代遅れのアマチュアリズムに反対し、スポーツの正しい行き方を求めて設けられたのではないかと思う。
受賞の知らせと同時に、クーベルタン賞国際委員会から日本に送ってきた趣意書 (原文はフランス語) の中に、次のように書いてある。「スポーツの根本的な精神として
“無欲” という理念にかえて “フェアプレー” の理念を置かなければならない。ということは、スポーツマンは、すべてアマチュアでなければならないというわけではないが、スポーツマンは、すべて
“フェアプレー” の精神を守らなければならない。フェアプレーが国際的なスポーツ活動の基礎にならなければならない
―― 」
このことばを、ぼくは次のように解釈する。
アマチュア・スポーツの良さを決して否定するわけではないけれども、むかしのように、スポーツは “身ゼニ”
を切ってやらなければならないものだというように、せまく考えることは現実的でもないし、正しくもない。金持ちだけが安心してスポーツをすることができ、強くなることができるようでは困る。
それでは、スポーツの道徳的規範はなにか。それはフェアプレーのほかにはない、ということなのだ。
プロを、きたないもの、間違ったものとしてけぎらいするのではなく、プロもアマも、スポーツは正しく美しいものでなければならないと考えるのだ。
■ 受賞の意義を生かせ
もうひとつ、これは日本蹴球協会の新田純興常務理事に教えられたのだが、受賞者一覧の中で気がつくことは、他のスポーツの受賞者は、すべて特別の事件があって、それによって表彰を受けたのだが、サッカーの場合はふたつとも、ふつうの通りに試合をして、ありのままの姿が認められていることだ。
たとえば第1回の受賞者であるボブスレーのモンティ選手は、インスブルックの冬季のとき、強敵のイギリス・チームが機械の故障で動けなくなっているのを見て、ちゅうちょなく部品を貸してやり、その結果、イギリス・チームが金メダルを得る結果になった。その美しい行為に対してフェアプレー・トロフィーが与えられている。
また1967年に表彰されたテニスのクルヤ選手は、国際試合で相手の選手がとつぜん足をつって動けなくなったとき、規則通りであれば、当然、自分が勝ちだったのに、ネットをとび越えて、相手を助けにいき、審判に対して試合を打ち切らないように頼み、相手が試合できるようになるまで待った。この寛容の精神がとりあげられている。
ところが、サッカーの場合には、とりたてていうような特殊なケースではない。メキシコ・オリンピックの日本チームの場合も、ただ「競技場の内外における行動が模範的だった」としているだけだ。
これについては、二つの考え方が成り立つと思う。
ひとつは、サッカーのほかの試合が、あまりにひどいので、ふつうに試合をしただけで目立つのだという考え方、もうひとつは、サッカーは、特別なことをしなくても、ルールとゲームの精神を守って堂々と戦えば、それだけで、みごとなフェアプレーの見本になることのできるスポーツだということである。
ぼくは、サッカーの愛好者のひとりとして、あとのほうの考えをとりたいと思う。
ルールとゲームの精神については、FIFA (国際サッカー連盟) が、最近新しいメモランダム (覚え書)
を出している。日本でも、近くその日本語訳が協会から発表されると思う。
日本蹴球協会は、日本がフェアプレー・トロフィーを受けた、この機会に、ぜひフェアプレーの精神をスポーツ界全部に広めるように努めてもらいたい。少数の関係者だけで、よくわけもわからずに、形式的なお祝いをするようなことでは、せっかくトロフィーをもらった意義が生かされない。
FIFAのメモランダムの日本語訳を、なるべく早く、広く配布するような事務的な仕事を、きちんとする一方、たとえばフェアプレーについての小・中学生の作文を募集するというような企画を立ててはどうだろうか。
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