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忙しすぎる日本サッカー ムルデカ参加はなぜもめたか? 
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(サッカーマガジン1967年9月号) 


日本を苦しい立場に追い込んだムルデカ大会参加問題は、これからの日本サッカーに貴重な教訓を残している。


7月21日の本郷秀英館

 7月21日、南米遠征の日本代表チームが出発する日に、合宿所の本郷秀英館に行ったら、長沼監督と岡野コーチがばたばたしていた。
 6畳の部屋いっぱいに運道具屋からとどいたばかりの新しいユニホームを並べ、製薬会社から寄贈された薬品や、南米に持っていくペナント、おみやげなどを配分している。選手たちに手分けして持っていかせるのである。
「おーい、6番のユニホームがないぞ。あれ、9番がふたつある」
「おおかた6番をさかさにつけちゃったんだろ。すぐに運道具屋に電話しよう」
 てんやわんやのところへ、八幡製鉄の渡辺選手が入ってくる。
「ぼく、どれ持っていくんですか。うへえー、こんなに持たされるの。テープレコーダーまで」
「たくさん頼むのは信頼されているからよ。頼りにしとるぜ」
 と長沼監督。
「こんな雑用まで監督、コーチがやるの?せめて出発するまでは、誰かマネジャーを頼めないの?」
「ほんとはマネジャーを頼むべきだろうな。なんでも、ふたりでやっちゃう習慣をつけたのが悪いんだ」
 こんな会話をしているとき、同じ秀英館の別館では、日本蹴球協会のおえら方が、ヒタイを集めて協議していた。毎年招待されているムルデカ・サッカー大会に日本がことしは参加をことわった。それで主催者のマレーシアがつむじをまげ、竹腰理事長をはじめ協会はその善後策に頭を悩ませていたのである。
 ぼく個人の意見をいえば、こんどのムルデカ参加のトラブルは、まったく日本サッカー協会の黒星だったと思う。
 そして、このことは、遠征出発の当日まで長沼監督、岡野コーチがマネジャーのやる仕事を引き受けて、てんてこ舞いしていることと無関係ではないのである。


日本とムルデカ大会の因縁

 順序として、日本とムルデカ大会の因縁を簡単に説明しよう。
 (1)ムルデカ大会は、マレーシアの独立を記念してラーマン首相がはじめたもの。東南アジアの国を旅費、滞在費マレーシア持ちで招待し、ことしが10回目である。
 (2)日本は1957年の第2回大会から毎年招待されて参加している。遠い日本を特に欠かさず招いたのは、日本のサッカーを盛んにしようというラーマン首相の好意によるといわれる。
 (3)日本は過去8回参加のうち日本代表の1軍が4回、2軍が4回出場、この3年は続けて2軍を派遣している。
 (4)成績は1軍の出た63年の第6回で2位になったのが最高で、あとは振るわない。
―― このいきさつを見て分かる通り、ムルデカ大会は日本のサッカーが、さんざんお世話になった大会だといっていい。
 とくに初め、日本が海外遠征になれなかったころは、日本が国際舞台に出る貴重な機会と経験を与えてくれたものだった。
 体育協会の会議で、ホッケー協会の役員が
「サッカーさんは丸がかえで招待してもらえるんですか。うらやましいですなあ」
と嘆息したことがあるのを、おぼえている。

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