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サッカーマガジン 1973年9月号
牛木記者のフリーキック

●サッカーマガジン100号万歳
 「サッカーマガジン」が、今月号で創刊以来、別冊もふくめて100号になるそうだ。創刊号以来の読者であり、執筆者であるぼくにとっても、まことにめでたい。ばんざあーい。
 昭和41年の春に、ベースボール・マガジン社が、「スポーツマガジン別冊」という形で“サッカー特別号”を出した。その売行きがよかったので、日本で初めての本格的な月刊商業サッカー専門誌として「サッカーマガジン」を出すことになった。そのときの編集長は、関谷勇さんである。
 関谷さんが、いろいろな関係者のところをまわって趣旨を説明し協力を求めて歩いた。あとで関谷さんから聞いた話だが、当時、月刊のサッカー専門誌が成り立つかどうか、危ぶんだのが、ぼくと岡野俊一郎氏の2人だったそうだ。
 「出してもらうのはうれしいけれど、たちまちつぶれたらサッカーの人気にかかわる」と岡野さんがいったという。ぼくも似たような意見で、「最初は季刊(年4回)にしたらどうか」といったりした。
 「季刊で出すくらいなら、出さない方がましですよ」と関谷さんがいった。「月刊で売れないようなら、季刊でも売れません」
 結果をみれば、ぼくと岡野さんは、いささか先見の明がなかったようである。関谷さんは、戦前、講談社にいて“講談社の絵本”の発刊を手がけ、戦後は「野球少年」などの編集もしていた。野球が専門だけれども、編集者としては、ベテラン中のべテランである。思えば「季刊にしてはどうか」などとシロートくさい意見を、出版の専門家に向かっていったのは、汗顔の至りである。
 関谷さんは、サッカーの好きな若者たちを配下に集め、一人前の編集者に仕立て上げて、「サッカーマガジン」の基礎を作った。そしてサッカーは若手にゆずって、いままた、ベースボール・マガジンの社内で新しい仕事を手がけている。
 あれから7年以上になる。サッカーマガジンと同じころ生まれた赤ちゃんが、そろそろボールをけりはじめているのではないだろうか。
 現在、中学や高校でサッカーをやっているヤングたちだって、「サッカーマガジン」は、ずっと昔からあったものと思い込んでいるのではないだろうか
 この雑誌の読者層は、この7年間、ずっと若者たちが主力だった。これはすばらしいことである。毎年、新しい読者を獲得し、サッカーの好きな人たちを広げていっていることを示している。
 もう一度サッカーマガジン、ばんざあーい!

●面白いサッカーをするには
 例年より3カ月以上も遅れて日本リーグの1部がスタートした。ことしは、東京の西が丘サッカー場、豊田市のトヨタ・グラウンド、広島市の県営競技場などに、ナイター設備ができて、ナイターが多い。夏休みの少年たちにサッカーを見せよう、というのが、ぼくのかねてからの主張だから、7、8月にナイターで試合をやるのは大賛成である。ただ、それにしては、お客さんの出足が思ったほどでない。日本リーグの運営当局と各チームは、もっとお客さんを集める努カをしなければいけない。
 しかし、いかにお客さんを集める努カをしても、試合そのものが面白くなければ、長続きしないだろう。したがって、面白いサッカーをすることは、当面のお客さんを集める方策以上に重要である。
  西が丘サッカー場で、第1節と第2節の試合を見たが、どうも、いま一つ面白くない。サッカーらしい興奮が味わえないのだ。
 数年前までは“黄金カード”だった三菱−東洋を見たあとで、日本蹴球協会の竹腰理事長が「面白くない試合だね」という。
 「そうですね。どっちもディフェンシブ(守備的)だからでしょう」
 となにげなく答えてハッと気がついた。
 三菱も東洋も、チームとしては決して、守備的な試合をしようと意図しているわけではない。相手にボールを奪われたとき、すばやく守って、ゴール前に多くの味方を配置しようとするのは、世界的な傾向で、それだけで守備的とはいえない。
 問題は、味方がボールをとったとき、相手の守りを破るために、どれだけのエネルギーを投入できるかにある。
 三菱−東洋戦の後半に、スイーパーをやっていた東洋の小城が中盤に上がり、パスを出して一気に最前線にかけ上がり、折り返しを受けてシュートした場面があった。たった1回限りだったけれども、スタンドは大喜びだった。
 ああいう攻撃的な場面が入れかわり立ちかわり出てくるようだと日本リーグの試合もスリルに富んだ面白いものになるだろう。ただ90分間、あのような攻めの応酬を続けるには相当な体力を要する。
 日本人の体力ではそういう面白いサッカーをするのは無理なのだろうか。
 面白いサッカーの一つの要素は体力であることに気がついた。

●西邑昌一氏からのお手紙
 先日、神戸の西邑昌一氏からお手紙をいただいた。西邑氏は、べルリン・オリンピックのときの日本代表選手、戦後は関西学院大学の監督をして、関学を日本一に育てた。ぼくは戦前の西邑氏の名選手ぶりは知らないが、戦後の名監督ぶりは知っている。こういう大先輩から直接お手紙をいただいて恐縮したし、名監督としての実績を残したご意見だから、なるほど、ごもっともであると思って拝読した。
 西邑氏のお手紙は、本誌7月号150ページのフリーキック「日本サッカーの再建策」で述べたぼくの考え方に関するものである。
  「日本サッカー再建のために」やるべきことば、ひとことでいえば「サッカーの試合をやること」に尽きる―― とぼくが書いたのに対し、西邑氏は「ヘボ試合は、いくらやってもダメ」といわれる。「ヘボ将棋をいくらやっても上手にならないのと同じように、ヘボ試合は、回を重ねるにつれて、精神的なゆるみも出て来て、なんの足しにもならないどころか、反対に害があって、悪いクセが助長される」という。
 ぼくの考えは、ヘボ試合をたくさんやれ、ということではなくてタイトルのかかった真剣勝負の機会を増やそう、ということである。真剣な勝負をするためには、すぐれた監督、コーチの指導による真剣な準備 (きびしい練習) を欠かせないのは当然である。この点については、西邑氏も同じお考えのように拝察した。
 いかに真剣な、激しい試合をやろうとしても、相手が弱くては、どうにもならない。したがって、同じ程度のレベルのチーム同士によるリーグ形式のタイトルマッチが、試合制度の基本でなければならない。(その点では、日本の高校と中学の大会形式は、よくないのではないか、とぼくは考えている)
 国内リーグの制度が確立しても、トップレベルの選手たちにとっては、まだ不十分である。自分たちよりも強い相手を求めて、国際試合の経験をつむチャンスが必要である。
 日本代表のレギュラーになれば、国際的な真剣勝負の機会が、かなりある。しかし、その次のクラスでは、実際に国際試合に出るチャンスは、ほとんどなく、国内では、お山の大将だ。したがって、日本代表のジュニアを海外武者修業に出せ、というぼくの意見に変わりはない。ただ、西邑氏のご指摘の通り、海外に行ってヘボ試合をしてきたのではダメで、すぐれた監督による、きびしい準備と指導が必要には違いない。


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