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サッカーマガジン 1972年12月号
牛木記者のフリーキック

●協会の改革は進んでいるか
 「最近、ほこ先がにぶっているようだな」
 と友人がいう。
 「なんのことだ?」とぼく。
 「ほら日本蹴球協会の改革のことさ。ひところは、ずいぶん手きびしく、協会の古い体質を改革しろなんて悪口を書いてたじゃないか」
 「歩みは遅々としていてもだ」
 とぼくの口調は、いささか言いわけがましくなる。「前を向いて進みはじめているときに、足を引っぱったりはしないのだ。シロート批評家のように小児病的なことはいわないのだ。ぼくはプロのジャーナリストだからな」
 本当のところは、サッカー以外の仕事が忙しくて、しばらく蹴球協会内部の動きから目を放していたのだから、どうも見えすいた空威張りになる。痛いところをつかれると、どうも人間は、居丈高になりやすい。
 しかし、テンポは遅くても、改革はたしかに行なわれている。テンポの遅いのは問題だし、改革の内容に批判すべき点もあるので、追求を怠っていたように思われたとすれば、ジャーナリストとして怠慢で申しわけないが、よちよちと歩き出したのを、歩き方が悪いからといって、すぐ突き転ばすのも、おとなげないではないか。
 「去年の4月に、沖さんという人が三菱系の会社の重役をやめて、協会の事務局長になったんだ。大物事務局長がきたって書いただろ。あれが改革のスタートさ」
 「その大物事務局長は、この1年半の間にクーデターでもやったのかい?」
 「そんなことをいうから小児病的だというんだ。改革はそう簡単には動かない」
 「そういえば、協会の事務室の戸棚の配置を変えたなんてことを書いてたことがあるな。あれが改革というわけだ」
 「ひやかしちゃいけない。部屋の模様替えだって悪いことじゃない。しかし、もっと重要な改革だってあるぞ」
 日本リーグに2部ができて、自主的に運営されている。2部では入場料収入は、地元チームのものになっている。天皇杯の方式が変更され、各地のチームがみな参加できるようになった。協会には委員会制度ができて、まがりなりにも動き出している。こういう改革はみな、この“フリーキック”のページでとりあげ、サッカー・マガジンの多くの読者から投書をいただいた問題だった。
 「そんな改革を、みな大物事務局長がやったわけではないだろ」
 「また、そんな小児病をいう。改革案は前からあったさ。それが進展したんだから、だれのせいだっていいじゃないか」
 本当は「サッカー・マガジンの読者のおかげさ」と、ぼくはいいたいのだ。
 蹴球協会を動かすのは、全国のサッカー愛好者であって、一握りの幹部ではない。

●西鉄ライオンズの教訓
 プロ野球パシフィック・リーグの西鉄ライオンズが身売りした。累積赤字が10億円あって、その金利負担が年に1億円だった。それで3億円で身売りしたのだという。プロ野球の経営も、なかなか楽ではないようだ。これからだって楽ではないだろう。
 西鉄の身売りが本決まりになるまでには、ずいぶん、ごたごたがあった。それで日本のプロ野球の隠していた病気が、ずいぶん、たくさん見つかった。主なものを列挙してみよう。
 @23年前に、日本のプロ野球が2リーグに分かれたときのしこりが、まだ後遺症になって残っている。当時、新しくできた毎日オリオンズが、阪神などから主力選手を強引に引き抜いて、いまのパシフィック・リーグを作ったのだが、長い間、苦労してプロ野球を育ててきた古い球団にとっては、ようやく軌道に乗ってきたところで、おいしい果実だけをもぎとられたようなもの。新興球団のやり口は、心外にたえなかった。いまになって、パ・リーグがつぶれそうだから、1リーグにしたいといわれても、すぐに「はい、そうですか」という気には、なれないのである。
 Aセ・リーグのチームは、自分のチームの人気よりも、もっぱら巨人の人気におんぶしている。1リーグに統合されてチーム数が増えると、自分の地元でやる巨人との対戦試合数が減って収入減になる。それで統合による1リーグ制に反対している。他人のフンドシで相撲をとるつもりだから情ない。
 B日本のプロ野球はトップの2リーグだけで、下部のマイナー・リーグとのつながりがない。社会人野球とは、かつて無茶な選手の引き抜きをしたのがたたって、絶交状態である。だから、たった一つの球団がつぶれそうになると、プロ野球全体の存亡に関する大騒ぎになるし、失業した選手の行きどころがなくなる。
 C人口90万の福岡市と100万の北九州市をフランチャイズにする西鉄が、やっていけないのは、どういうわけか。日本のプロ野球は企業宣伝が主目的で、自分の力で公共的な仕事をする意識がないこと、地元との結びつきを強化しようとする努力が足りないこと、セミプロをふくめた下部組織がなく、人件費がかかり過ぎること、など複雑な原因による病気のようである。
 西鉄ライオンズの身売り問題で明るみに出た、このようなプロ野球の病気は、日本に“プロ野球型のプロ・サッカー”を作ろうとしている人たちにとって、手きびしい教訓ではないだろうか。既成チームの選手を引き抜いたり、宣伝目的の企業に密着して、地域社会や現在のサッカー組織から遊離したプロ・サッカー球団を作ろうとするのは愚かな試みである。

●田辺五兵衛さんのこと
 毎年正月には、関西へ高校サッカー選手権大会を見にいくのを、新聞記者になってから欠かしたことがない。
 近年は、そのさいに田辺五兵衛氏のお宅に年賀にうかがって、サッカーのよもやま話を聞くのが例になっていて、これが大きな楽しみだった。その田辺さんが急逝されたことを新聞で知って、びっくりすると同時に、たいへんがっかりした。やむを得ないことだが、正月の大きな楽しみがなくなってしまった。
 田辺五兵衛さんは、田辺製薬の会長で、日本蹴球協会の顧問で、ご自身が中学生のころから鹿鳴クラブ(関西の超OBチーム)の長老になるまでサッカーの選手で、かつて実業団で無敵を誇った田辺製薬サッカー部の育ての親で、日本のサッカー・ファンの開祖のような人で、サッカーに関するコレクションでも大家だった。
 プレーヤーで、コーチで、理論家で、オーナーで、パトロンで、役員で、ファンで、マニアだった。 
  日本のサッカー界に、これほど幅広く、風格のある仕事をした人はもう出てこないだろう。
 田辺さんに親しくしていただいたのは、ここ5、6年のことに過ぎないから、ぼくが追悼文を書くのは適当でない。それは他の方が書かれると思うが、ききかじっていたことの2、3を紹介しておきたい。
 田辺さんは、昭和のはじめころに「蹴球教範」というサッカーの指導書を書かれたことがあるらしい。いま読んでみても、ずいぶん進んだ先見の明のある理論が展開されているそうだ。また、同じころに「蹴球評論」という雑誌を出し、これが日本におけるサッカー専門誌のはじめだそうである。
 こういうものは、みな田辺さんが自腹を切って出版されたものである。教範も雑誌も、ぼくは持っていないので、そのうちコピーを作っていただくことになっていたのだが、機会を失したのは残念である。
 第2次世界大戦後に、はじめて日本のサッカーが海外に出たのは1951年ニューデリーの第1回アジア競技大会である。当時の日本は、敗戦後の混乱期で経済事情が悪く、外貨も極端に不足していて、人数の多いチーム競技を外国に出すのはむつかしい状態だった。
 それでもサッカーがニューデリーに行くことができたのは、実は田辺さんのおかげだった。
 田辺さんは、戦争が終わったあと日本体育協会の再建にあたって、当時のお金で100万円を寄付した。貨幣価値の変動からみて、いまのお金の2000万円以上に当たるだろうと思う。
 「この寄付は、蹴球のためなんだぞ」というのが田辺さんのいい分だったという。これがアジア大会派遺選手団の中に、サッカーを加えるために役立ったという話である。


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