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サッカーマガジン 1971年3月号
牛木記者のフリーキック

■ 高校サッカーと背番号
 高校選手権大会で優勝した藤枝東高は、終始、4−2−4システム (布陣) で戦った。選手たちの背番号は、ゴールキーパーを1番として、ディフェンス・ラインが右から2、3、4、5、ハーフラインが6、7、前線が8、9、10、11と、きれいに並んでいた。
 意識的にそうしたのだろうと思って、監督の長池先生にきいてみた。
 「そうですか。特別に意識して並べたわけじゃないんですがね。偶然ですよ。ふふふ…」
 「ただの偶然にしては、きれいに並び過ぎてるじゃないですか」
 「いや、大会前の選手登録を書いて出すときにね。ゴールキーパーから順番に書いて、あとで、上から順番に番号をつけていったから、そうなっちゃった」
 「なるほど、藤枝式の背番号のつけ方を、全国に広めようというつもりじゃないんだな」
 「そんな、だいそれた…」
 「だけど、ぼくら見てるものには、分かりやすくていいや。あれ、ソ連のチームの背番号のつけ方と同じだね」
 背番号のつけ方は、特に意識したものではないかも知れないが、長池先生の頭の中に、藤枝東の4−2−4について、明確なイメージがあり、それにしたがって選手たちがプレーしたことは間違いない。
 「そんなこと、当然じゃないか。自分のチームのシステムを知らないで、試合ができるか」
 こういう人がいるかも知れない。
 しかし、西宮の高校大会を見ていた限りでは、どうもシステムについて明確な考えのないような試合ぶりが目についた。
 高校大会では、WM型やダブル・ストッパー (WM型から1人ずつ下げて守りを固めている) や4−2−4やスイーパー・システムが入り乱れている。
 その結果、中盤で浮いた選手が出ているのに、少しも活用されなかったり、マークされていない相手がいるのに、ベンチから適切な指示が出ていなかったりする。そんな例がいくつかあった。
 「高校のサッカーに、もっと精密な試合をさせなくては、いけないんじゃないか」
 というのが、西宮の大会を見た、ぼくの感想である。

■ 東京へ行ったら
 「東京へ行ってサッカーをしたいが…」
 という相談を、ちょく、ちょく受ける。
 「どこか、チームに入れるだろうか」
 春に高校を出る。近ごろ求人難で、高校出は金の卵。勤め先に不自由はないはずだが、就職は、まだ決まっていないという。
 「ぼくは別に……。働いてもいいんだけど。勉強、あまり好きでないから……。だけどお母さんが、大学に行くんじゃないと東京へは出せないっていうものだから……」
 ま、いいでしょう。どこか大学に、入って、その大学のサッカー部にはいったら?
 「……」
 答には2種類ある。
 その1。
 ―― 大学のサッカー部には、入りたくない。部に入るのは、みんな高校のころからの名選手で、引っぱられて入った人ばかりだろ。ぼくんとこのいなかは、広島みたいにサッカーが盛んじゃないし、ぼくも、そんなにうまくない。大学のサッカー部に入って、しごかれたうえに、試合に出られないんじゃ、つまらない。どこか別のチームでやりたい。
 その2。
 ―― 大学のサッカー部には、入りたくない。高校でも、少しは鳴らしたし、足に自信はあるけどね。先輩の話では、大学のサッカー部の練習は、時代遅れで、ひどいっていうじゃん。いいコーチもいないしね。どうせ勉強は好きじゃなし、大学にはいってサッカーの才能まで、つぶされたくないよ。日本リーグのチームに、入れないかな。
 「大学のサッカー部生活も、そんなに悪いものじゃないよ。早稲田、慶応…ちゃんとした大学なら…」
 「そんなとこ、とても入れないよ」
 能力に応じて、適当な大学に行って親を安心させ、サッカーは別のクラブでやりたいという。考え方はなかなかしっかりしている。
 不幸なことに、日本では、だれでも入れるスポーツ・クラブは非常に少ない。
 大学に入ったら、その大学のサッカー部に入るほかはないという仕組みは間違っていると思うが、どうだろう。

■ 外人軍師
 来年2月の札幌冬季オリンピックを目ざして猛訓練中の日本のアイスホッケーが、外人コーチをめぐってトラブルを起こした。
 ソ連からカルポフ・コーチを招いて日本代表チームを指導してもらうことにしたのだが、その処遇が第一に問題だったようである。
 監督じゃダメだ、総監督じゃどうか、ただのコーチでは軽すぎる、てなことで結局、コンサルタント・コーチという名前で発表された。いうなれば“軍師”である。
 日本代表チームに入ってもらったら、たちまち第2のトラブルが起こった。「軍師のいうことは、あまりに、いままでのやり方と違い過ぎる。日本の実情が分かっていない」というようなことだったらしい。結局「通訳が悪い」ということになった。専門の職業通訳でなくて、アイスホッケーが好きなあまり、会社を休んで奉仕通訳を買って出た人である。気の毒なことをした。
 西ドイツのチームを招いて親善試合をして全日本チームは全敗、単独チームの西武鉄道だけが1勝をあげた。そのあげく、監督 (日本人) が辞任して、西武鉄道の監督が全日本の監督になった。
 カルポフが、すぐれたコーチであることは、その経歴からみて、疑いないようである。とすれば、受け入れる日本側の態勢が悪かったのだと思う。連盟と選手たちの外人コーチ受け入れの心構えがなっていなかったのではないか。
 これにくらべれば、1960年に西ドイツからクラーマー・コーチを迎え入れたときの日本サッカーは恵まれていた。それに、クラさんの性格が、日本人を教えるのに向いていたようである。
 カルポフさんは温厚型だが、クラさんは、日本に来たとき、いきなり、こういったものだ。
 「わたしは、世界でいちばん優秀なコーチであるとはいわないが、世界でもっとも優秀なコーチの中の1人である。少なくとも、いまアジアで、わたし以上のサッカーのコーチは、いないはずだ」

■ 国際審判員の黒星
 個人的によく知っている人たちのことを取りあげるのは、非常に心苦しいが、サッカー・マガジンの誌面は、公共的なものであり、批判するのが私の仕事だから、お許しを願いたい。強い立ち場にある人たち ―― たとえばサッカーであれば、協会の会長だとか、理事長だとかが相手であれば、遠慮えしゃくはしないのだが、審判員は能力と努力のわりには恵まれない立ち場にいるので、ちょっと筆がにぶるわけである。
 12月にバンコクで開かれたアジア大会のとき、日本からは3人の国際審判員が派遣された。そのうち試合の笛を吹いたのは、帯同審判として行った永嶋正俊氏だけだった。
 その永嶋主審の担当したのが、例のイラン対インドネシアの試合で、乱闘さわぎのあげく、警官隊が人垣を作って試合を終えるしまつだった。
 この試合が荒れたのは、いろいろ悪い条件が重なったらしい。イランとインドネシアのような、優勝候補にもあげられる強豪が、同じグループに入ったのが、第一の悪条件だった。地元側が試合の準備を満足にしてなくて、審判が行ってみて、あわてて自分でボールに空気をつめるというようなこともあったらしい。
 それに永嶋主審自身の体調もよくなかったし、東南アジアのチームの試合ぶりに、永嶋氏が慣れていなかったこともあった。日本蹴球協会が派遺審判を決めるとき、東南アジアでの試合を経験したことのある人を選ぶべきだったかも知れない。
 3人の国際審判員は、アジア・サッカー連盟の審判研修会に出席するためにバンコクに行ったのだが、永嶋氏と丸山義行氏は、ゲリのため出席できず、木村直氏だけが出席した。これも審判員の黒星だった。
 試合のトラブルといい、ゲリといい、本人のせいというより、これは一種の不運である。
 しかし、国際審判員の世界では、しばしば、運、不運も、実力のうちに数えられる。


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