(サッカーマガジン1971年4月号 牛木記者のフリーキック
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“プレ・さっぽろ”
2月は、大部分を北海道の札幌で過ごした。来年の2月に、この町で冬のオリンピックが開かれる。そのリハーサルに
“プレ・オリンピック” が行なわれ、その取材に行ったのである。
「日本人は、きちょうめんだ」という。スポーツの大会をやれば、競技の成績はともかく、組織や運営は世界一だとされている。しかし、それはウソっぱちであることが、北海道の寒さとともに、身にしみてわかった。
ぼくが札幌に行ったのは3度目で、前の2回は通りすがりに1泊しただけだったから、土地カンは全くないといってよかった。言葉がすらすらと通じるというだけで、その他の点では、外国へ行って取材しているのと全く変らない。
朝早く、雪がかちかちに凍ってスリップする坂道を、タクシーで手稲山に登っていく。途中で分かれ道があって、右がスキーの回転か、左がボブスレーか、標識が立ってないから、さっぱり分からない。たまに立っていると、かんじんの文字が小さ過ぎて、車を降りてみないと、よく見えない。山の中の道をぐるぐると回った。
「これならメキシコのワールドカップのときのほうが楽だった」
というのが、正直なところ、ぼくの感想である。
昨年の6月、メキシコで開かれたサッカーの世界選手権、ワールドカップのとき、新聞記者のためには、柿色のバスが用意されており、どてっ腹に「MEXICO
70 PRESS」と書いた桃色のでっかい看板をぶら下げていて、遠くからでも、すぐ分かった。
この桃色が新聞記者のための色で、10万人を収容する、あの巨大なアステカ・スタジアムの中でも、桃色の中にタイプライターの図案を描いた大きな標識をたどっていけば、ひとりでに新聞記者のワーク・ルームに到着するようになっていた。
メキシコのサッカー・マンのほうが、札幌のお役人よりも、よっぽど気がきいている。
やっぱり、サッカーがいちばんである。
■ 卓球に学べ
卓球がすごいブームになるという話である。
3月28日から4月7日まで、名古屋で開かれる世界卓球選手権の入場券が、発売3日で売り切れた。そればかりじゃなくて、大会の後援をしたい、協賛をしたいという申し出がたくさんあって、大会の総収入が1億5000万円になるのだという。
この話を聞いていて、いちばん感心したのは、この総収入の中に、募金1200万円というのがあって、これが満額集まったことである。
世界卓球が、これほどブームになるとは、はじめ関係者のだれもが予想しなかったことで、大会は大きな赤字さえ考えられていた。
「世界選手権の開催は、日本の卓球の将来をかけた事業なんだ。これを成功させるために、全国の卓球人が総力をあげるんだということを見せようじゃないか」
というので、卓球協会は、全国の各都道府県協会に募金額を割り当てた。
大会は名古屋で開かれるのだから、北海道や鹿児島の人が見にいけるというものではない。また選手の出身県も、サッカーにくらべても、さらに限られている。
それでも、大会に直接関係のない地方の人たちが、自分たちのスポーツのために、力を出し合ったのである。
世界卓球のあと、4月 - 5月には、東京、大宮、横浜で、アジア・ユースサッカー大会が開かれる。蹴球協会創立50周年記念と銘打って、タイトルだけは、はなばなしい。
世界卓球とアジア・ユースに対して、政府から出る補助金がともに1000万円。タイトルの比重から見て、サッカーのほうが恵まれた感じである。
一般募金のほうはアジア・ユースが3000万円の予算を組んでいるらしいが、集まるメドは、この原稿を書いている時点では、全く立っていないようだ。
大会をやるにしても、協会創立記念事業をやるにしても、計画は協会の一部の役員の頭の中にあるだけで、大衆の協カと支持を得ようという気持ちが、全く見えないのは、サッカーのために悲しい。
■ 高田一美君の場合
“杉山二世” といわれる高田一美君が、日本大学を1年で退学して、来シーズンから三菱重工でプレーをすることになった。まだ若い。19歳そこそこである。
スポーツ新聞で、その記事を読んだ若い友人が来ていう。
「こりゃまた、牛木さんの持論にひっかかるケースが出てきましたね」
「そりゃ、なぜ」
「だって、引抜きでしょ。この前、引抜きは、けしからんて、書いてたじゃないですか」
たしかに、登録制度の確立が必要であることや、シーズン途中の移籍を禁止すべきことに関連して、選手の引抜き防止を主張したことがある。ぼくは次のような制度を確立すべきだと考えている。
(1)原則として1人の選手は1チームにしか登録できない(二重登録の禁止)。
(2)シーズン途中の移籍(登録チームの変更)は認めない。
(3)シーズン切替え時の移籍は、前シーズン在籍のチームの承諾を要する。
(4)移籍を希望する選手に対し、前シーズン在籍のチームが承諾を与えないため、2チームの間で、トラブルを生じた場合は、管轄の蹴球協会で裁定するが、特別の事情ある場合のほかは、少なくとも1年間、その選手の出場を停止する。
「高田君の場合は(4)に相当するんだけどね。これは “特別の事情ある場合” だと思うんだ」
「特別の事情ってなんですか」
「日大のサッカー部は、日大の学生だけしか入れないわけだろ。いわばメンバーの資格を限定した特殊なクラブなんだ。ところが高田君は1月20日ごろに退学届を出して認められている。つまり日大の学生でなくなったのだから、高田君は日大サッカー部の部員としての資格がない。逆にいえば日大サッカー部は、高田君の登録保有を主張する権利がない」
「なるほど」
「それにしても、高田君は、なぜ大学をやめたのかねえ。そりゃ、家庭の事情もあるだろうけど、大学のサッカー部に高田君を引き止めるだけの魅力がないんだとすると、いよいよ大学サッカーの危機だなあ」
■ 86年を考える
日本蹴球協会の野津会長のところに、全国から、いろいろな手紙がくるそうである。
「1986年に、日本でワールドカップをやれという意見も多いですよ。反対にやるなというのもある。できるだけ返事を書くようにしているんですよ」
と野津会長の話。
ジャーナリズムの常識では、1通の投書の背後には、1000人の同じ意見があるといわれている。とすれば、日本全国に、1986年
―― いまから15年後のことを考えている人たちが何十万人もいることになる。
1986年に日本でサッカーのワールドカップを開催しようという話は、前にも書いた。アメリカ、コロンビア、ユーゴ、オーストラリアなどが、すでに立候補していて、遅くとも、1978年までには開催地を決定することになっている。
日本はまだ立候補していないので、国際サッカー連盟(FIFA) のどの文書にも、まだ “日本” のワールドカップ開催希望は記載されていない。
そこでぼくの提案だが、まず立ち遅れないために、なによりも立侯補の意思表示を、なんらかの形で、文書でFIFAにしておく必要がある。
正式な立候補でなくても、方法はあるはずである。
このことは野津会長にも、再三にわたって申し上げたが、なぜか、はっきりしたご意見をうかがえなかった。
実際にワールドカップを開催するのに、どんな準備が必要かは、2年ぐらいかけて、じっくり研究すればいい。
15年後には、世の中はどんなに変っているか分からない。東京から福岡まで、15分くらいでいけるような交通手段が開発されていないとも限らない。
というわけで、未来学者やSF作家などを加えて「1986年を考える会」を作ってみたいと考えている。
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